牛祭

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うしまつり


画題

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解説

画題辞典

慈覚大師帰朝の時、自ら海路の安全を祈れりと伝う摩多羅神を祭ろ神事にして、九月十一日より十三日まで、京都洛外太秦広隆寺に行わる、十二日の夜戌の刻、僧侶五人、五大尊の形を表わし、一人牛に乗り、四人之を囲みて本堂を廻り、祖師堂前の壇上にて祭文を読む、その文、古代の諺を綴りて成り、聴く人を驚かす、亦京都年中行事の一にして、屡々図せらるゝ所あり。

岡田為恭の図あり(京都青山長祐氏蔵)。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

十月十二日(古は陰暦九月十二日)京都嵯峨太秦の広隆寺で摩多羅神を祭る、これを牛祭といふ、当夜深更寺僧及町民集り、白衣白袴をつけ、摩多羅の仮面をつけ、牛に乗り、青鬼赤鬼の行装した四天王之に随ひ、古雅な囃子につれて祖師堂の前に来り摩多羅神のみ拝殿を三度半で廻り正面の堂前で摩多羅祭文を読上げる、その祭文の節が極めて面白く京阪の人々見物多く賑ふ。

此祭の由来は三条天皇の長和元年、一代の高僧恵心僧都、日夜信心を凝らして極楽浄土の阿弥陀如来を拝せんことを祈ると、或夜の夢に安養界の真の無量寿仏を拝み奉らんと思はゞ、広隆寺絵堂(今の講堂)の本尊を拝すべしとの告を受け、僧都大に歓び、直に広隆寺に詣で此の尊像を拝し霊夢の空しからざるを喜び、一刀三礼して弥陀三尊の像を刻み、常行念仏堂を建立し、同年九月十一日より三日間唱名念仏を修し摩吒羅神を念仏守護の神に勧請して国家安全、五穀豊穣、魔障退散の御祈祷法会を修したのに起つてゐる。 此の牛祭も明治維新後暫らく中絶してゐたが富岡鉄斎によつて再興され、陰暦を陽暦に改め十月十二日夜行ふことになつた、その行列は左の通りである。

一、捧持(金棒二人) 

一、各町神灯(十三) 

一、囃方(六人)

一、箱提灯(二人)

一、神事奉行(裃着用四人)

一、若党

一、松明(二)

一、四天王

一、松明(一)

一、摩吒羅神

一、牛方

一、牛肝煎(一人)

一、箱提灯(二人)  (俳諧歳時記)

牛祭は富岡鉄斎の作によく之を見る、近くは山崎豊の作(第九回青竜社展出品)がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)