廓文章

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くるわぶんしょう


総合


歌舞伎

近松門左衛門作「夕霧阿波鳴渡」上巻の吉田屋の段を書換えたもの。 上方和事の典型的な演目となっている。

1808年(文化5)10月江戸中村座で3代目坂東彦三郎が演じたのが、歌舞伎での初演(演博101-2563)である。

明治以降は、義大夫と常磐津または清元の掛合いで演じられる。

梗概

 師走の大阪。大坂新町吉田屋の太夫・夕霧に馴染み、勘当の身となった藤屋伊左衛門は、紙子姿で吉田屋にやってくる。主人に会いたいというが、みすぼらしい姿に使用人たちは、追出そうとする。そこへ現れた主人喜左衛門は、奥の座敷へ迎え入れる。喜左衛門夫婦のもてなしを受け、夕霧の様子を聞けば、秋から患っていたが、今日は別の客の席に出ているというので、伊左衛門は嫉妬し、腹を立てる。 一人で待ちながら、炬燵を使ってさまざま苛つく仕草をみせ、寝入ってしまう。やがて病鉢巻の夕霧があらわれ、その不実をなじり口説になるが、夕霧の真心がわかり、仲がなおる。 折りから、父親から勘当を許すとの報せと夕霧の身請け金が届けられ、めでたくおさまる。

1,「廓文章」の現行の型

 本作は、近松門左衛門の作品である「夕霧阿波鳴渡」の上巻の書き換えである。言うまでもなく、この作品の主人公は藤屋伊左衛門で、この役は、元禄歌舞伎の時代に初代坂田藤十郎が得意として、生涯に一八回も演じたのだという。藤十郎の芸は、継承者がいなく、この役に、藤十郎の芸がそのまま残っているわけではないが、現在の歌舞伎作品の中で、上方歌舞伎の古風な和事の芸が見られる代表的な作品としては、本作品にとどめを刺す。その意味で、江戸の「助六」と対をなして好対照であるが、同時に、いずれの役も紙子を着るのは、この役柄が実は、根を同じくすることの証拠である。

 浄瑠璃では、寛政五年(1793)に上演されたとの記録があるが、歌舞伎での初演は、文化五年(1808)十月江戸中村座のことである。この時は、三代目坂東彦三郎が伊左衛門をつとめた(演博101-2562)。現在は、片岡仁左衛門家と中村鴈治郎家が頻繁に上演している。

 平成十六年(2004)、渡辺保によってまとめられた『歌舞伎 型の魅力』(角川書店)は、いくつかの著名な作品の演出の型について、詳細にまたコンパクトにまとめられた演出事典であり、歌舞伎研究に寄与するところ大である。この中で、この「廓文章」も取り上げられている。渡辺によれば、「廓文章」には現在全部で五つの型があるという。

上方系

1,仁左衛門型

2,鴈治郎型

⇒延若型をもう一つ数える場合もあるが、これは本人が鴈治郎型に準じるとある。

東京系

3,宗十郎型

 助高屋高助(二代目沢村訥升)をその養子の七代目宗十郎が継いだもの。

4,羽左衛門型

 五代目坂東彦三郎の型を写した五代目尾上菊五郎の型(明治二十二年上演)を十五代目市村羽左衛門が引き継いだもの。

5,菊五郎型

 昭和二十一年に六代目尾上菊五郎が新演出を試みたもの。

  • 上記の型は、全て明治以降の役者の名前をつけているもの。
  • 江戸時代の役者については基本的には触れられていない。
  • かろうじて、五代目彦三郎が江戸末から明治初頭の役者であり、これが五代目菊五郎・羽左衛門という系統につながっている。

2,役者絵にみる伊左衛門の型

 そこで、江戸期における「廓文章」の型を、役者絵によって検証してみよう。

 最初に提示できる役者絵は、一筆齊文調による明和八年(1771)一月森田座の四立目に上演された「夕霧阿波の鳴渡」の一場面を描いた作品である。(フォッグ美術館蔵『浮世絵聚花』8巻63図)伊左衛門に初代中村富十郎、 夕霧に初代中村のしほの配役である。もちろん、これは「廓文章」以前のものであるが、「夕霧伊左衛門」を描いた役者絵では、この作品が最古であろう。伊左衛門の衣装が二色の引継で、手紙の反古であることから文字が散らされているのが現在まで引き継がれているだけでなく、すでに、伊左衛門の編笠、扇、夕霧の手紙という基本要素は描かれているわけである。

※文調には「すがた八景」のシリーズがあり、その一図は「夕霧伊左衛門」である。制作年は明和八年頃であり、やはり明和八年一月の森田座の舞台を意識した作品と思われる。これも、描かれた場面は、玄関口で夕霧が伊左衛門を迎える図である。)

 現在の演出では、最初に注目されるのは、花道の出で、仁左衛門型では、「差出し」と呼ばれる古風な蝋燭の照明を後見が前後から照らして、編笠で顔を隠して出て、その鷹揚さと零落の気分を表現する。他の型でも、この出端の演技に注意を払っていて、ここがむしろ注目されているかもしれない。しかしながら、役者絵の方では、むしろ本舞台に来てからの「暖簾口」の前での演技が一つの見どころとなっているようである。

 ここの演技は、伊左衛門は、勘当され零落の身となった後、久しぶりに、それまで足繁く通った吉田屋に辿り着き、暖簾口から主人の喜左衛門を呼んで、少し引いて極まり、出て来た喜左衛門とのやりとりの後、編笠を取って、揚々と暖簾を潜るまでである。

 渡辺の整理によれば、近代の役者たちは、暖簾口をのぞいた後、次のように演ずるという。

【仁左衛門・鴈治郎型】 白扇を半開きにして、口に当てて極まる。

【宗十郎型】 扇を全開きにして、正面を向いて極まる。

【菊五郎型】 上手を向き、体を捻って顎を突き出して(扇を鼻先に当てて)極まる。これは、竹本が「鼻に扇の横柄なり」とつけるのを、そのまま絵にした形。

 さて、昭和五十五年十二月南座の顔見世で、十三代目片岡仁左衛門の演じた型は、扇を全開し、正面を向いて極まった。これは、宗十郎型と言えるが、実は、その後も片岡家では、この型で演じている。少なくとも、十五代目仁左衛門に至って、渡辺が言うような扇を半開きにした演技を見ることはできない。

 この扇を全開する型を役者絵に求めると、嘉永三年(1850)七月市村座での五代目沢村長十郎の図を見つけることができる(演博101-2580)。五代目沢村長十郎は後の五代目沢村宗十郎で、二代目沢村訥升の父親である。渡辺によって宗十郎型と定められた扇の型は役者絵によって、五代目宗十郎まで遡ることができる。

 文化六年(1809)九月森田座では、三代目坂東三津五郎が、伊左衛門を演じている。それを追いかけるように同じ月中村座では、三代目歌右衛門が伊左衛門で対抗している。前年の彦三郎の初演の後、すぐに森田座と中村座での「廓文章」競演となったのは、初演が比較的好評であったことを物語るが、文化五年の中村座がこの作品を出したのが、九月お名残興行のさらに追加狂言として十月二日からであり、次の顔見世との間にせいぜい十日ほどしか上演期間がなかったはずであり、むしろ文化六年の方は、伊左衛門役の本命として、江戸の和事師三津五郎が満を期したものであろう。そして、上方から下った大人気の歌右衛門が対抗したことによって、この時の競演のインパクトは強力なものがあっただろう。

 「廓文章」暖簾口の絵としては、この時の三津五郎のものが最古のものとして残っている(池田文庫蔵)。この文化六年森田座の作品には、背景が描かれていないが、編笠を被ったまま、扇を全開させて顔を隠して立つものであり、先述の五代目宗十郎の図のポーズと完全に一致する。したがって、宗十郎系の型、ならびに現行の片岡家の型は、ほぼ初演にちかい段階で形成された、三代目三津五郎による演じ方を受け継いでいると言ってもよいだろう。

 次に提示する作品は、珍しい五代目岩井半四郎の伊左衛門である(演博002-1311)。文化十一年(1814)七月市村座での上演で、ここは、やはり扇を全開している。しかし、これまでの二作品と異なるのは、編笠を取っていることで、そのために前髪のある若衆としての伊左衛門であることがわかる。岩井半四郎の場合、編笠を取り、全開した扇で顔をより引き立たせて、極まったところのようである。美貌の女方が若衆の伊左衛門を演じているわけだから、こうした演出があってもしかるべきだろう。

 しかし、現行の段取りでは、編笠を取るのは、喜左衛門が出て、草履の鼻緒が切れたので、喜左衛門が自分の下駄を履かせた後である。したがって、編笠を手に持つ場合、暖簾口をのぞいた後というよりも、これから暖簾をくぐろうとする場面とも考えられる。

 店先の場面は、「廓文章」がまだ成立する以前の段階で、文調の作品にも描かれていた。この場合は、編笠を被ったまま、夕霧が迎えに出ている。文化二年(1805)九月中村座では、三代目坂東三津五郎の伊左衛門が予定されており、その時の役者絵が出ている。(V&A E.4807-1886)この場合は、扇を閉じて右手に持ち、左手で編笠を抱えている。この作品は、二枚続きであり、一枚目には、瀬川路考の夕霧が裲襠の立ち姿で描かれている。特定の場面を想定するとすると、文調のものと重なることになる。おそらくは、これも座敷へ上がる前の一シーンであることは間違いないであろう(三津五郎はこの時、劇場側とトラブルを起こし、実際には伊左衛門を演じることなく中村座を退座しており、この作品は予定稿であることがわかっている。)また、文政六年(1823)八月大坂大西芝居では、「けいせい阿波鳴戸」で、後に四代目中村歌右衛門になる中村鶴助が伊左衛門を演じている。この時の役者絵では、暖簾口の前に立って扇を持たず、編笠を右手に持つ(注11)。以上、三点はいずれも「廓文章」ではないが、これを見ただけでも、伊左衛門の門口での段取りには、いくつかの可能性は考えられるのである。

 「廓文章」において、編笠を取るのが、暖簾口からのぞいたすぐ後なのか、暖簾を潜る前の段階なのかの判断は、はなはだ難しい。「廓文章」においても、編笠を脱ぎ、扇は描かれないパターンの作品がいくつか残っている。  三代豊国の「教訓いろはたとゑ」(演博500-3524)では、五代目宗十郎の伊左衛門が、右手で編笠を持ってバストアップで描かれている。扇は見えない。対で描かれる八代目団十郎の助六は、嘉永三年(1850)三月に、「廓文章」は、七月に出ているから、嘉永三年から四年にかけての出版であろう。この同じ上演を踏まえて描いたと思われる嘉永五年(1852)六月の改印がある「東都冨士尽」(演博005-0264)の中にも「藤屋伊左衛門」があり、まったく同じ構図の五代目宗十郎である。

 また、上方絵で嘉永二年から四年の間の四代目歌右衛門の当たり役を列挙した「翫雀狂言合」でも、笠を取った立ち姿の伊左衛門が描かれている。(H.リュールHSK233)

 さらに、このポーズで描かれている役者絵として、明治に入って国周の揃い物「梅幸百種」にも「廓文章」が取り上げられている(演博007-3022)。梅幸すなわち五代目菊五郎の夕霧が主題であるが、駒絵として中村宗十郎の伊左衛門が描かれている。この組み合わせでの上演は、明治六年(1873)のことである。この絵では伊左衛門は扇を持っておらず、編笠を持っている。中村宗十郎は、この時期の名優であり、上方役者である。渡辺も、鴈治郎や沢村訥升にこの宗十郎の伊左衛門からの影響があると指摘している。

 これらの場合、喜左衛門が暖簾先に出て、絡みながら編笠を受け取る現在の段取りからみて、丁度、その編笠を取ったその瞬間を描いたものと考えられる。この時には、確かに扇は使わないからである。

 安政六年(1859)十一月の改印がある「見立十二ヶ月の内」(Ebi0328)にも、八代目片岡仁左衛門の伊左衛門が、扇がなく編笠を持っている形で描かれている。したがって、これは、おそらく喜左衛門を脇にして、編笠を脱いだ瞬間を絵にしたものである。

 一方、安政二年(1855)九月の「見立月尽」(V&A E.7203-1886)では、後に八代目片岡仁左衛門になる片岡我童が、扇を全開して、しかも編笠も脱ぎ、顔を見せている。これは、文化十一年の五代目半四郎の伊左衛門と通じるやり方で、扇を開いた先には鼻がある、まさに「鼻に扇の横柄なり」のくだりとなろう。これらの役者絵は、どちらも嘉永七年(1854)三月中村座での上演時を踏まえた見立絵である。残念ながら、上演時出版の役者絵で、暖簾口を描いたものは、管見にしてまだ見つけていない。

 以上の整理に従えば、扇を開いているものは、暖簾前で極まる「鼻に扇の横柄なり」の場面を描いており、編笠のみの場合は、喜左衛門に促されて揚々と暖簾をくぐる前の場面と想定することができるだろう。

 このように役者絵によって「廓文章」暖簾前での演出の歴史を遡っていくと、暖簾の前の「鼻に扇の横柄なり」での演技は、詞章に扇があるように、扇の扱いがポイントとなる。三津五郎が先鞭をつけ、それを宗十郎が踏襲した。沢村家ではその古い型を受け継ぐが、十三代目仁左衛門のように古い演出を知っている役者は、自分の家の型とは違う、古い型を演じることがあり、それがまた片岡家に定着していっている。役者絵の時代には扇を半開きにする演出は見つけることはできない。

3,芳滝の伊左衛門

 次に取り上げるのは、芳滝が描いた伊左衛門で、構図が面白く興味深い作品である(ARC UP0267)。舞台を正面からでなく上手脇から見た構図で、暖簾口は描かれていないが、花道側を向いて、背中を向けた状態から首だけグイッと右に捻って、暖簾口を見たポーズである。笠は左手で持って、顔を右肩越しに見せている。よく見ると、その肩のあたりに右手の袖口が描かれており、右手は袖口にいれた状態で、扇は持っていないか、持っていても開かれていないと判断できる。

 この作品は、平成十七年六月大英博物館の「大坂歌舞伎(Kabuki Heroes)展」において、会場ビデオのオープニングに使った作品で、日本国内で巡回した二会場でも上映した(注14)。そこでは、舞台の実写映像からCGになってアニメ化し、さらに浮世絵作品に重なるように映像を制作した。この映像そのものの制作目的は、海外での歌舞伎を紹介する展覧会のため、古典芸能たる歌舞伎が、日本では現在も生きた演劇として存在していることをイメージとして表現したかったためである。映像では、花道から本舞台にきた伊左衛門が、暖簾口で喜左衛門を呼び、少し下がって、体を捻り、暖簾口を振り返ってみると同時に編笠を取るというコンテを考えたのである。したがって、その時には、この図は、「扇に鼻の」の箇所と判断したわけである。

 しかし、上述のごとく、この場合は、扇を開いていないことが判明したから、前節で述べたように喜左衛門が出て来た後、これから暖簾口を潜ろうして編笠を取った場面と判断できる。したがって、オープニングビデオでの処理は、誤りだったということになる。

 なお、本図の上演は、文久三年(1863)三月大坂角の芝居で、二代目片岡我当が演じたものである。実は、この図は、オリジナルなものではなく、文久元年(1861)三月大坂筑後芝居で、二代目嵐璃☆が演じた時のものと考証される芳滝自身の作品を流用している(池田文庫蔵)。原図は、画中に「見立て松竹梅之内 松」の文字があり、舞台を描いた絵としては、掲載した我当の作品の方がよい。この作品の面白さは、むしろ、上手舞台袖からの視点を使ったところにあり、その結果、伊左衛門を背後から描くことに成功したのである。実際、大坂でも、芳滝のような職業絵師の場合、舞台袖で芝居を見る機会が多かったのではないかと想像したくなる作品である。

 しかし、本作からは、無理な姿勢を使いながらも暖簾奥への視線を描くことで、吉田屋前の場が、伊左衛門の奥にいる夕霧への思いを表現する場であることを気づかせてくれる。暖簾を描かないことで、むしろ暖簾、あるいは暖簾奥への意識を強烈にアピールする結果となっている。職業絵師が芝居を見る目の鋭さを感じ取らせるものである。

 こうした意識で現代の演出をみると、完全に正面を向いてしまう仁左衛門系らの型よりも、菊五郎系の演出がこの作品と似て、暖簾奥への意識が強く表現されていることがわかる。六代目菊五郎は、全ての演出において変更を試みたという。おそらく、それは菊五郎独自の発想により、生み出された演出だったのだろう。芳滝作品の場合、絵師の解釈が構図に反映した可能性も高いが、江戸期において、すでに誰かがそうした演出を試みていたり、そう演じるべきという解釈があったりした可能性はあるのである。近代の新演出と呼ばれているものの中には、過去にあったにも関わらず、演出を単に忘れてしまっているものもあるにちがいないのである。

4,荒事風の演出

 場面を変えてみよう。挿図8は、国員による「大日本六十余州」シリーズの「阿波」で、二代目嵐璃☆による伊左衛門である。やはり文久一年(1861)三月大坂筑後芝居での上演を踏まえたものと考証される。この作品の場合、伊左衛門のポーズからは、これが荒事の一シーンのように感じ取れる。あるいは、男達の達引きの場面とも見紛う。痴話喧嘩の場面ではあるが、現行演出では、和事としての身のこなしが要求される場面であるから、きわめて不自然に感じられる。しかし、伊左衛門が、このような仕草で描かれている作品はこれだけではない。もう一つの例を提示してみよう。図9は、寛政十年(1798)三月桐座上演「澪標浪花眺」の一場面である。「廓文章」としての上演ではないが、座敷での伊左衛門と夕霧の緊張した一瞬を描いている。もしも、画中に役名がなければ、これを「助六」と見間違う人もいるにちがいない(挿図9)。

 さらに、文化十三年(1816)五月大坂角芝居「ちらし書廓文章」の中村歌右衛門による伊左衛門を江戸の豊国画が描いたもの(挿図10)にも、腕まくりの様子が見えている。この時、豊国は、江戸を離れているわけではないから、文化十一年(1814)十一月江戸の中村座で演じた演技が反映されているものであろう。ちなみに、この時は、夕霧と伊左衛門をライバルの三津五郎と一日替りで交代して演じたものである。三津五郎が、和事師としての演技をするのに対してより違いを強調するための演出だったのかもしれない。

 現行の型では、鼓を打って「万歳傾城」と罵るくだりに対して、渡辺は、川尻清譚の文章から、「ポンとギバに成って両足を前へ投げ出し、指と指とを組み合せて、裏返しに仕て前へ出して極る」と引用し(注17)、

 私はこの文章を読んでわが目を疑った。敵役や荒事なら知らず、和事の色事師の伊左衛門を(中略)両足を前に出す「ギバ」で宗十郎がやったのなら、驚かざるを得ない

と書いている。現代の我々は、伊左衛門という役柄に対して、あまりにもバイアスをかけ過ぎているのである。

 渡辺は、奇しくもこの宗十郎型の中に、「野性的な、ポリホニックな宇宙」を確認したが、役者絵を通じて、まさに先入観からの解放を獲得できるのかもしれない。