平重盛

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たいらのしげもり


画題

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解説

画題辞典

「こまつないふ」(小松内府)、「しげもりかんげん」(重盛諫言)、「とうろうのおとど」(燈籠大臣)等を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平重盛は清盛の長子、薙髪して証空と号し世に小松内大臣また灯籠大臣といふ、久安六年蔵人となり、従五位下に叙し、久寿二年中務少輔となる、保元元年崇徳上皇兵を白河殿に集むるや、重盛父に従うて軍功があり、二年正五位下に叙せられ左衛門佐に任じ遠江守を兼ねた、平治元年源義朝・藤原信頼と兵を挙げ内裏に拠つて事を図るや、重盛父と共に変を聞いて馳帰り自から兵を率ゐて待賢門を攻めた信頼懼れて退つたので更に前進し、大庭掠樹に悪源太義平と渡り合ふ、既にして義朝六波羅を襲うたので、重盛之を撃つて退け是の冬功に依つて伊予守を兼ね、翌年従三位に、長寛三年には正三位に進んだ、永万元年の秋、流言あり、後白河上皇ひそかに僧徒をして平氏討伐の兵を起さしむと、清盛聞て大に驚き兵を集めて之に備へたが、重盛の諌言によつて之を解いた、仁安元年権中納言に任ぜられ春宮大夫を兼ね、二年従二位に叙し、権大納言にまで上つたが、翌年病の為めに之を辞した、次で承安元年に権大納言に復し、四年には右大将を兼ね、治承元年には左大将となり内大臣となつた、既にして藤原成親等党を結んで平氏を亡ぼさんとし事洩れて罪せらるゝや、清盛は怒つて後白河法皇を別宮に幽せんとし重盛の諌言に依り漸く其事無きを得たが、それから清盛の跋扈日に甚だしく、重盛はこれを憂ひ怏々として楽しまず、遂に病を得、三年内大臣を辞した、高倉天皇之を聞召され為めに薬を賜ひ、法皇また親しく病を問はせ給うた、治承三年八月遂に薨ず、年四十二、重盛の資性忠謹なると、その諌言、灯籠の供養など好個の画題として画かるゝ処少くない。重盛を描いた作。

国宝平重盛像          京都神護寺蔵

松岡映丘筆  『平治の重盛』  第十回帝展出品

福田恵一筆  『重盛』     同上

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)