宇治川合戦

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うじがわかっせん


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

宇治川は山城国にあり、寿永三年源範頼義経が頼朝の命を奉じて木曽義仲を京都に攻むるに当り、義仲は勢多宇治の二橋を撤して拒いた、佐々木四郎高綱、梶原源太景季の両人、宇治川に於て先陣を争う、即ち宇治川先陣争にして最も有名なる事実で、画とし描かるゝは概ねこの事である。是れより先、源頼朝に二名馬あり、生唼(いけずき)といい、磨墨(するすみ)という。生唼最も駿、梶原景季之を望みて得ず、景季磨墨を賜わる。已にして高綱後れて近江より至りて頼朝より生唼を賜わり先陣を約す。やがて宇治川に至るや、敵橋を去り水底に鹿角を布き綱を引きて備う、諸将未だ渉らざるに、景季高綱単騎小島崎より水に入る、景季先んず、高綱欺き呼んで曰く、おんみの馬の肚帯緩むと、景季即ち馬をとどめ肚帯を約す、その間に乗じ、高綱は流を載ちて先登し大声高綱先陣と呼ぶ、諸将次いて渉り義仲軍遂に敗る。

狩野光信筆(福岡子爵所蔵)、

伝土佐光起筆(東京帝室博物館所蔵)、

矢野三郎兵衛筆(細川侯爵所蔵)、

呉春筆(三井男爵所蔵)

等何れも宇治川合戦を画きし屏風にて名高きものである。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

宇治川の戦は、古く応神天皇の御宇、神功皇后武内宿祢が忍熊王と戦つたのをはじめ、高倉天皇の治承四年、源頼政が以仁王を奉じて平家と戦ひ、寿永二年には源義経と木曽義仲が戦つてゐる、此の外建武二年新田義貞と足利尊氏直義の戦もあるが、義経義仲との戦ひが最も聞えてゐる。

平等院の小島崎より武者二騎蒐出たり、梶原源太と佐々木四郎と也、景季が装束には木蘭地直垂に黒革縅の鎧に三枚甲の緒をしめて、滋籐の弓の中を取、二十四差たる小中黒の矢負、練鐔の太刀佩て鎌倉殿より給りたる磨墨と云名馬に、黒塗の鞍置に騎たり、高綱は褐衣〈かちえ〉の直垂に小桜を黄に返したる鎧に鍬形打たる甲に、笛籐弓の真中取、二十四差たる石打の征矢頭高に負嗔物造の太刀帯て是も鎌倉殿より給たる生唼〈いけづき〉に、黄覆輪の鞍置てぞ騎たりける、誰が先陣と見処に、源太殿、御辺と打入て遥かに先立けり、高綱云けるは、如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければ角申す、殿の馬の腹帯は以外に窕〈ゆる〉て見物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給なと云ければ、左もあらんと思て馬を留、鐙踏張立挙り、弓の弦を目に噉へ、腹帯を解て引詰々々しめける間に、高綱さつと打渡して二段計先立たり、源太たばかられけりと不安思て是も打浸して渡しけるが馬の足網に懸て思様にも不被渡、高綱は究竟の逸物に乗たれば、宇治川はやしといへ共淵瀬を不云さゞめかして金に渡し向の岸近く成て高綱が馬綱に懸て足をさと歩除ければ自元期する事なれば、太刀を抜大綱小綱三筋さと切流し、向の岸へ打上り鎧踏張り弓杖突て佐々木四郎高綱、字治川の先陣渡たりやと名乗も果てぬに、梶原源太も流渡に上りにけり、源太佐々木鎌倉へ早馬を立、何れも劣じ負じと馳て行、源太が早馬は先立たりけるが、如何したりけん、足柄の中山にて高綱が早馬走立ぬ、三日と申すに馳附て、高綱宇治川の先陣と申たり、同時に梶原が使又来て景季先陣と申けり、右兵衛殿は、安立新三郎清恒を召て佐々木梶原生たりやと問給へば、共に候と申す其後は尋給事なし、後日の注進に宇治川の先陣は高綱と被注たりけるを見給てこそ言と心と相違なしとは宣けれ、佐々木梶原一陣二陣に渡すを見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も我もと打浸々々渡しけり。(下略)  (源平盛衰記巻卅五)

宇治川合戦の先陣争ひは、合戦絵の好個の画題とて画るゝもの多い、主な作

土佐光起筆     帝室博物館蔵

西山芳園筆     神戸田村家旧蔵

狩野光信筆     福岡子爵家蔵

松村呉春筆     三井男爵家蔵

勝田竹翁筆     東京美術学校蔵

伝矢野三郎兵衛筆  細川護立氏蔵

筆者不明屏風    文部省蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)