大原御幸

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おはらごこう


画題

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解説

画題辞典

大原御幸のこ平家物語にありて更に謡曲にも作られ、人口に膾炙す。さても寿永の昔、平家の一門が西海に滅ぶるや、運命を平家と共にせられて、平家の船に坐わせし建礼門院にも御入水ありしが、御心ならすも源氏の武士に救われて再び都に上らせ給い、遂に御年二十九にて元暦二年に御出家あり、都近き御住居も物憂しとて洛北大原の奥に寂光院といえるあるを住みよかんと、選び給いて大納言の佐の局外一人を伴いて此に移り、柴引き結びて草の庵となし、朝夕の勧行に月日を送らせけり、然るを後白河の法皇、その翌年の卯月二十日余りというに、公卿殿上人十人余りに北面少少随いて大原の御住居御覧ぜんと、夏草の繁み踏み分けて御幸なる。かくて蔦蕣這ひかゝり藜藿深く鎖せる御庵室に、昔に変りし墨染の衣召されつる門院と、昔を偲ぶ御物語どもありしとなり、詩人断腸の一段なリ

明治四十一年国画玉成会の展覧会に下村観山この一齣を一巻に画きて出品せるもの世に名高し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

後白河法皇が大原の寂光院に建礼門院を訪はせ給ふこと平家物語にある、建礼門院は平家の一門と共に在し一度は入水あらせられたが心ならずも源氏の武士に救はれて再び都に上らせ給ひ元暦二年御年二十九にして御出家あり、大原の里なる寂光院に入らせ給ふを、その翌年の卯月廿日あまりに、法皇公卿殿上人等十人余りを従へさせられ、遥々院を訪れたまひ、暫しありし昔を偲ばせ給ふ、その一節を引く。

西山の麓に一宇の御堂有り、即寂光院是なり、古う作りなせる泉水木立、有由様の所なり『甍破れては霧不断の香を焼き、とぼそ落ては月も常住の灯を挑ぐ』とも、加様の処をや可申、庭の夏草茂り合ひ、青柳の糸を乱りつゝ池の浮草浪に漂ひ、錦を暴すかと被誤、中島の松に懸れる藤波の、うら紫に咲る色、青葉交りの晩桜、初花よりも珍らしく、岸の山吹咲乱れ八重立雲の絶間より山郭公の一声も君の御幸を待がほ也、法皇是を叡覧有て、かうぞ思召つゞけける。

池水は渚の桜散り敷きて浪の花こそ盛りなりけれ

ふりにける岩の絶間より、落くる水の音さへゆゑび由ある処なり、緑蘿の垣翠黛の山、絵にかく共筆も難及、女院の御庵室を御覧あれば、軒には蔦槿はひかゝりしのぶ交りの萱草、瓢箪屡空、草滋顔淵之巷、藜藋深鎖、雨湿原憲之枢とも可謂、杉の葺目もまばらにて時雨も霜も置く露も、漏る月影に争ひてたまるべしとも見えざりけり、後は山、前は野辺、いざゝをざゝに風噪ぎ世にたえぬ身の習ひとて、うきふし繁き竹柱、都の方の言伝は間遠に結るませ垣や、僅に事問ふ物とては嶺に木伝ふ猿の声、賎士がつま木の斧の音、是等が音便ならでは正木の葛青葛、来人稀なる所なり。

謡曲では元清の作で、シテは建礼門院、ツレ阿波内侍、大納言局、後白河法皇、ワキ万里小路中納言、ツレ大臣、卜モ供奉官人となつてゐる。一節を引く、

げにや君ここに叡慮のめぐみ末かけて、あはれもさぞな大原や芹生の里の細道、おぼろの清水月ならで、御影や今に残るらん、「扨や御幸の折しもは、いかなる時節なるらん、「春過ぎ夏もはや北祭のをりなれば、青葉にまじる夏木立、春の名残ぞ惜しまるゝ、「遠山にかゝる白雲は「散りにし花のかたみかや、「夏草のしげみが原のそことなく、分け入り給ふ道の末、「こことてや、げに寂光の静なる、光の陰を惜しめたゞ、「ひかりの影もあきらけき、玉松が枝に咲きそふや、「池の藤波なつかけて、「是も御幸を、「待ちがほに、青葉がくれのおそ桜、初花よりもめづらかに中々やうかはる有様をあはれと叡慮にかけまくも、かたじけなしや此御幸、柴の扉のしばしがほども、あるべき住居なるべしや。

『大原御幸』を画いたものには、下村観山の作が名高い、国画玉成会に出品せしもの、また松岡映丘にもこれがある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)