佐藤忠信

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さとうたゞのぶ


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

佐藤忠信、四郎兵衛と称す、陸奥の人、信夫荘司元治の子にして嗣信の同母弟なり。源義経奥州下向の折、主従を約し爾後其左右に侍す。義経平家に克ちて後、兄頼朝の怒に触れ、追伐の兵を向けらるゝや、義経を奉じて吉野山に匿る。已にして吉野の僧徒来り逼るに及び、忠信義経の甲冑を著し、佯りて源判官と称して奮闘す、義経その間を以て脱走す。後忠信亦逃れて此地を去り京都に僣居す、糟谷有季なるもの之を探知し、兵を以つて来り囲むに及び、力闘の後自刺して死す、時に年二十六なり。謡曲に「忠信」あり、戯曲に「義経千本桜」あり、能に劇に舞踊に、忠信が事は屡々上場せられて、最も世に知もる、歴史画として芝居絵として画かるゝもの亦少しとせず。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

信夫の庄司元治の子で、継信の弟、源義経が藤原秀衡の許に在つた時から之に仕へ屡々軍功あり、鎌田盛政、同光政及び兄継信と共に四天王と称せらる、後、義経の奏請で兵衛尉に任ぜられた、義経、兄頼朝と不和となり京都にあるや、頼朝は土佐坊昌俊をして堀河に夜襲せしめたが、忠信等奮戦して之を敗り、義経を奉じて吉野山に入つた、僧兵等謀つて義経を討たうとしたので、忠信は義経の甲冑を身につけ奮戦する隙に義経は落ち延び、忠信また谷を越えて京都に入つたが、翌年糟谷有季に襲はれ、従者二人と共に奮戦して死す、時に年二十六。

義経今は遥に延びさせたまふらんと思ひ、忠信は三滋目結の直垂に、緋縅の鎧、白星の甲の緒をしめ、淡海公より伝はりたるつゞら井といふ太刀、三尺五寸有りけると佩き判官より給はりたる金作りの太刀を佩き添へにし、大中黒の廿四指したる上矢にはあをほろ鏑の目より下六寸許り有るに大の雁股すげて佐藤の家に伝ヘてさす事なればはちばみの羽を以て作りたるひとつ中差をいづれの矢よりも一寸はずを出して指したりけるを頭高におひなし、ふし木の弓のほこ短く射よげなるを持ち手勢七人中院の東谷にとゞまりて雪の山を高くつきて譲葉榊葉をさん/゙\に切りさして、前には大木を五六本楯に取りて麓の大衆二三百を今や今やとぞ待ちたりけるが、されども敵は寄せざりけり、かくて日を暮すべき様もなし『いざや追つき参らせて判官の御供申さん』と陣をさりて二町許り尋ね行きけれども風烈しくて雪ふりければ、其の跡も皆白妙になりにければ力およばず前の所へ帰りにけり、酉の時ばかりに大衆三百人ばかり谷を隔てゝおしよせて、同音に鬨をぞ作りける、七人も向の杉山の中より幽に鬨を合せけり、さてこそ敵爰に有りしは知られけれ、其日は執行の代官に川くら法師と申して悪僧あり、よせあしの先陣をぞしたりける、法師なれども尋常に出立ちたり、萌黄の直垂に紫糸の鎧きて三枚甲の緒をしめて、じんせい作りの太刀はき石うちの征矢の廿四さしたるを頭高におひなして二所籐の弓の真中取りて我に劣らぬ悪僧五六人前後に歩ませてまつさきに見えたる法師は四十ばかりに見えけるが、褐の直垂に黒革縅の腹巻、黒漆の太刀をはき椎の木の四枝楯つかせ矢比にぞ寄せたりける、川くらの法眼楯のおもてに進み出て大音あげて申しけるは『抑此の山には鎌倉殿の御弟判官殿渡らせ給ひ候ふ由承りて吉野の執行こそまかり向ひ候へ、わたくしらは何の遺恨候はねば、一先落ちさせ給ふべく候ふか又討死あそばし候はんか、御前に誰がしか御渡り候ふ、よき様に申され候へや』とさか/\しげに申たりければ、四郎兵衛是を聞きて『あら事も愚や清和天皇の御末、九郎判官殿の御渡り候ふとは今迄御辺達は知らざりけるか、日来よしみ有るは訪ひ参らせたらんは何の苦しきぞ人の讒言によりて鎌倉殿御中当時不和におはしますとも無実なれば、などか召し直し給はざらん、あはれ末の大事かな、仔細を問うて聞けと言ふ、御使何者とか思ふらん、鎌足の内大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤左衛門のりたかには孫、信夫の庄司が二男四郎兵衛の尉、藤原の忠信と言ふ者なり、後に論ずるな、慥に聞け吉野の小法師原』とぞいひける。  (義経記)

佐藤忠信を画いたものゝ中政信、春章作は重要美術品に指定されてゐる。

水野年方筆  『佐藤忠信参館図』  宮内省蔵

奥村政信筆  細判紅絵       三原繁吉氏蔵

勝川春章筆  中判柱絵       同上

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)