PAGE1
PAGE2
PAGE3
PAGE4


 
6 北斗供法                鎌倉時代

 息災延命を願う星供の次第書で、北斗七星を本命星とする。本命星とは、生年の支が北斗七星の七つの星の何れかにあり、個人の一生の運命が所属する星とされた。本命星の信仰は、陰陽道の本命日の思想が宿曜道に流入したもので、十世紀前半以降、平安貴族の間で盛んに信仰された。北斗供法は、生年干支にあたる本命日に行われた。
 本巻は奥書によると、弘安元年(一二七八)に伝受され、書写されたものである。もともと神護寺の別院栂尾山の十無尽院(高山寺)の明恵上人が相伝していた「御本」を書写したものと考えられる。

 【北斗七星と生年】

 ☆貧狼(子)
  ☆巨門星(丑亥)
  ☆祿存星(寅戌)
 ☆文曲星(卯酉)
 ☆廉貞星(辰申)
 ☆武曲星(巳未)
 ☆破軍星(午)
 尾
【奥書】 
一校了、
弘安元年六月廿七日、
奉伝受畢 (カ)
十無尽院上人相伝之、


(第4紙・裏書)

 
7 九曜秘暦                  鎌倉時代

 日月木火土金水の七曜に、蝕星(羅)と彗星(計都)の二星を加えたものが九曜であり、九執(くしゅ)ともいう。九曜は、その年、その年齢の運命が所属する星で、一年間に限った属星(ぞくしょう)である。九曜を生まれた順に数え、その人の年齢に当たる星を年星(ねぞう)といい、人の運命を把握し決定すると信じられていた。星には善悪、日には吉凶の性質があるとされ、人や動物によって表された。
 本書は、もともと平治元年(一一五九)に勧修寺慈尊院流興然が書写した自筆本を、応永三年(一三九六)東寺観智院二世院主の賢宝(一三三三〜一三九八)が勧修寺慈尊院の経蔵に寄進した旨が記されている。このことから、小野流勧修寺慈尊院流系統の九曜に関する秘説と判断できる。東寺観智院は、勧修寺慈尊院流に属す院家である。東寺観智院伝来本。

 内容には、九曜の名称として、胡(シルクロードを支配した交易の民族であるのソグド人など )、波(婆)斯(ペルシア・現トルコ)、天竺(インド)の三ヶ国の名称が記載され、七曜の尊容、方向、真言、性質などが説明されている。遙か東南アジア世界とのつながりを想わせる壮大な秘暦である。

【奥書】

本云、 平治元年九月六日書了、
興然
応永三年七月日以理明房自筆本、
令模写了、 件写本依祖師真迹、 令
寄進慈尊院経蔵了、
法印権大僧正賢宝 (虫損)

六十四


7-4(12ウ)【水曜辰星 胡名商、婆斯名掣森勿、天竺名部陀、】


7-5 (14ウ)【木曜歳星 胡名鶻勿斯、婆斯名本森勿、天竺名勿里許婆鼓底、】


7-6(17オ)【金曜大白 胡名那歇、婆斯名數森勿、天竺名成羯羅、】


7-7(19オ)【土曜鎮星 胡名枳淙、婆斯名翕森勿木、天竺名中捨乃以(室カ)析羅、】


 7-1(5オ)【日曜太陽 胡名密、婆斯名曜森勿、天竺名阿底耶、】


7-2(7ウ)【月曜太陰 胡名英、婆斯名婁禍森勿、天竺名蘇摩、】


7-3(10オ)【火曜惑 胡名雪漢、婆斯云勢森勿、天竺名糞我羅迦、】

 
8 神泉苑請雨経法指図                  室町時代

 禁苑として出発した神泉苑が、祈雨修法の場として確立するのは九世紀半ば以降である。さらに十世紀初期からは真言僧による祈雨法会が相次ぎ、それが、天長元年(八二四)に空海が神泉苑祈雨を行ったとの伝説を生むに至った。中世には真言宗が祈雨修法を独占する。本図は文永十年(一二七三)、神泉苑で行われた祈雨法の際の仮屋指図を、醍醐寺理性院仙覚が筆写し、それを明徳四年(一三九三)、東寺観智院の賢宝が写したものである。下を北にして描く。東寺観智院伝来。

 


裏書1

裏書2

 
9 灌頂道具等指図                  室町時代

 高座・前机・十二天屏風・山水屏風・庭幡などをはじめ、大小九十点以上の灌頂諸道具が寸法・材質などとともに記されている。奥書の冒頭に「永仁第四之暦秋上旬之作依師主御命恵性相共参同酉酉寺三宝并宝池院ニ所写灌頂道具等絵様大体如右」とあるから、原本は永仁四年(一二九六)に成立していた。それが、醍醐三宝院・宝池院に所蔵され、そして、「于時文明八年十月廿二日於大僧都良珎阿闍梨御本賜阿州大粟上山戸宮光明寺書写畢、宝幢坊良栄」と、文明八年(一四七六)に書写されたことが知られる。なお裏表紙に「汀道具本記九」とあり、本書は本来、複数冊あったうちの一部である可能性がある。

【奥書】
永仁第四之暦秋上旬之作、依師主御命
恵性相共参同酉酉寺三宝并宝池院
所写灌頂道具等絵様大体如右、宝
   (遍)   
池院 道具 天福年中 僧正漸 智院
被調置也、然故大僧正定院務之時
当院被移納云々、不令就者三宝院御経
道具也、于時三宝院院主通海法印
  (刑)    
宝池院定任法印奉行 部僧都 永海
蔵主伊与アサリ同十一月廿一日、於八幡法
薗寺御書ー絵様禅俊筆也云々、
于時寛正三年九月三日先師良弁
法印御本、宥智律師ヨリ申賜書写畢、
吉祥坊良教之
      (訪)
于時寛正五年
二十日、於讃州諏
山長福寺賜書写畢、満福寺良珎六十九
于時文明八年 十月廿二日、於大僧都
良珎阿闍梨御本賜阿州大粟上山
戸宮光明寺書写畢、宝幢坊良栄


(1オ)              

(8オ)            (7ウ)

 
10 後七日御修法請僧交名                  平安時代

 宮中真言院で、正月八日から七日間行われた法会である御修法に参勤した請僧の名前を記した記録。天仁三年(一一一〇)から仁安四年(一一六九)年までの、約六〇年間を納める。『東寺百合文書』「ふ」の二に納められた同交名が、ほぼそれに該当する。両者の間には少し異同があるが、裏書も含めて本記録は、『東寺百合文書』の写しと考えられ、筆跡は複数人ある。今後の比較検討が課題であろう。
 なお後七日御修法は平安時代から江戸時代まで行われた。本史料については、裏書も含めて、横井清氏による翻刻「永観文庫所蔵 御修法記」(『立命館文学』二一〇号、一九六二年)がある。


(第1紙)

PAGE1 PAGE2 PAGE3 PAGE4

図録凡例・図録作成上の主な参考文献


本ホームページ図版・内容の無断複製等を禁じます。
Copyright ©2003 Ritsumeikan University Art Research Center

お問い合わせ:立命館大学アート・リサーチセンター
〒603-8577 京都市北区等持院北町56-1
TEL 075-466-3411 FAX 075-466-3415
E−MAIL arc-jimu@arc.ritsumei.ac.jp