芦苅

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あしかり


画題

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解説

東洋画題綜覧

摂津芦苅明神の縁起、謡曲にも作られてゐる、扶桑故事『要略』の記す処左の通り、

摂津葦苅明神と申すは、昔摂州難波津に夫婦二人居住せり、宿世の戒行のつたなきにや、貧乏にして渡世を苦しみ、左右すれども不称、終に夫婦生別之時剋到来すれば、あかぬ別れをなす、然れども妻は世にある方に縁ありて、不乏送年序、剰可然富貴の家に、いざと云ふに催されて、再び嫁礼之定まれることあり、乗与力者優々として、佗に赴きけるに、昔住みにし浜の辺を行々見やれば、折しも前夫、葦二束を負ひて休み居るを、輿の内より見之、以為く、誠に一樹の陰の宿、一河の流れを汲む、是れ多生の縁なり、以乎夫婦の契〈かたら〉ひ数年の睦みあるものを、今賑しき方に往くとも、幾許の楽哉と、芳心を発し、二親の菩提のためと小袖を押し出してとらせけり、男はあやしみながら、喜びて立ち寄りて見簾中、正しく吾が昔の妻なり、此の男負ひたる葦を折り捨てゝ得たる小袖を肩に懸けて磯に立ち寄りて、涙と共に

君ならで葦刈りけりと思ふよりいとゞ難波の浦ぞ住みうき

と詠じて南無と計聞えしが、その身は海に飛び入りける、女房見之、悲涙絶感、従者に告げて云く、唯今投身男の体を見ばや、前後の人誠と思ひ、輿を立てゝ休みけるに女房も磯に立ち寄りて云はく、一仏浄土へ迎へ給へと、南無と云ひて共に入海、其の後海神の通力を得て、神と顕はれて、難波津の葦刈明神と成り玉ふと云へり。

謡曲の方は、『大和物語』から取つてゐるので男を日下左衛門といひ、これがシテであり、妻がツレで、妻の貞節により夫を尋ね出して共に京へ上るといふことになつてゐる、其の一節、

「いかに是なる人に申すべき事の候ふ、「此方の事に候ふか何事にて候ふぞ、「見申せば、色々の物を売り候ふ中に、難波の芦を御売り候ふ事やさしうこそ候へ、「さん候ふ、此あたりにては売る者も買ふ人も、唯何となくあつかふ所に、都の人とて難波の芦を御賞翫こそ、返す/\もやさしけれ、我も昔は難波津の、名におふ古き都人の、ゆかりの露のおちぶれたる、身は枯芦の色なくとも、よしとて召され候へ、「あら面白や候ふさてよしと芦とは同じ草にて候ふか、「さん候ふ、譬へば薄ともいひ穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し、「扨は物の名も所によりて替はるよのう、「中々の事、此芦を伊勢人は浜荻といひ、「難波人は「芦と云ふ。「むつかしや難波の浦のよしあしも、賎しき海士はえぞ知らぬ、唯世を渡る為めなれば、仮の命つがんとて、芦を取り運びて此市にいづる芦数におあし添へて召されよや、おあし添へて召されよ、露ながら、難波の芦を刈り持ちて、よるは月をも運ぶなりや、名残をし夕波の、昼の内に召されよや、昼の中に召されよ。

芦刈は能画としても画かれ舞踊にも芦苅あつて、絵になつてゐる。

西川祐信筆  岸上家旧蔵

奥村政信筆  故大関藤吉氏蔵

松岡映丘筆  昭和三年尚美展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)