紀安雄

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きの やすお


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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從五位下の種継の子。仁明天皇が経術を崇信し、屡々儒士を招いて御前で難しい議論をさせていた。当時、御船宿祢氏主が大学博士、種継が助教であった。二人は、御前で経義について議論し、論駁が繰り返されて、互いに相手を説得できなかった。同じ時期に、左近衛阿刀根継と右近衛伴氏長の二人がいて、ともに相撲が上手で天下無双とされていた。仁明天皇は戯れに氏主を氏長に、種継を根継に例えたという。種継は元の姓が苅田と言い、安雄になると紀朝臣の姓を賜った。安雄は、ゆったりとして従順な性格を持ち、学問の研究に秀でた。天安初年は大学直講を務め、後年從五位下を授けられ、助教に任ぜられた。格式の編纂に参加していた。のち武蔵守となり、施政が寛大且つ仁恵で、官僚と民が安定して暮らせるようになった。儒家の経典に精通し、文才に富んでいた。仁和二年、從五位上、周防守にまで栄転。六十五歳で亡くなった。

(『前賢故実』)