和泉式部

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総合

(日本国語大辞典・宮柊二「小倉百人一首」より)

平安中期の女流歌人。中古三十六歌仙の一人。越前守大江雅致(まさむね)と越中守平保衡の女の娘。

二十歳頃和泉守橘道貞と結婚し「和泉式部」とよばれた。小式部内侍を産む。また、為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王と恋愛し、のち藤原保昌と再婚するなど一生を恋愛に終始し、情熱的なうたをよんだ。 「和泉式部集」「和泉式部日記」がある。 天元二年(979)頃生まれたといわれ、没年は夫の保昌が死去した長元九年(1036)以後だとされるがともに未詳。

一条天皇の中宮、彰子に仕える。いずみしきぶ


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

和泉式部は前越前守大江雅致の女なり、和歌を善くして知らる。和泉守橘道貞に嫁して小式部内侍を生む、其後に至り上東門院に仕え為尊親王と通ず、親王薨後又その弟敦道親王に通じ,更に未だ絶たずして藤原保昌に嫁す、されば節操に於て頗る非議がある。時に播摩書写山に僧性空あり挙世之を崇信す、式部之に和歌を送る、曰く「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき はるかに照らす山のはの月」世その精妙を称すo

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平安朝の歌人、越前守大江雅致の女、和歌をよくし声名あり、和泉守橋道貞に嫁して、女小式部を生んだ、一説には藤原保昌に嫁して生んだともいふ、道長に召されて上東門院に仕へ、その間にまた為尊親王と懇になつたといふ、これから道貞との仲が面白からず遂に離別され、為尊親王の薨ぜらるゝや、其弟敦道親王との噂も生んだ、後ち藤原保昌に嫁いだといふ。時に播磨の書写山に僧性空が居た、式部これに和歌を送つて曰く、

くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らす山のはの月

と、世以て精妙となす。  (大日本史、本朝烈女伝)

式部の逸事の中、貴船詣でのこと、『古今著聞集』にあつて、画題に扱はれてゐる。

和泉式部、男のかれ/"\になりける頃、貴船に詣でたるに、蛍のとぶを見て、

ものおもへば沢のほたるも我身よりあくがれいづる玉かとぞみる

とよめりければ、御社の内に忍びたる御声にて、

おく山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちるばかりものなおもひそ

そのしるしありけるとぞ。

和泉式部を描いた作、

梥本一洋筆  昭和三年尚美展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)