俊寛

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しゅんかん


画題

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解説

画題辞典

俊寛僧都は鹿谷法性寺の執行なり、源大納言雅俊の孫、木寺法印寬雅の子、平清盛の専横を悪み、藤原大納言成親等と図り、窃に後白河法皇を擁して平氏を亡ぼさんとし、事露はれ、治承元年平康頼等と共に鬼界島に流さる、妻子京都に残り悲歎甚だし、明年康頼等赦されて京に帰りしも、俊寛首罪の故を以て獨り赦されず、妻書を認め僕蟻王に托し、鬼界島に至らしむ、蟻王波浪を渡りて島に抵り、之を俊寛に致す、俊寛見て慟哭して遂に絶す、時に治承二年三月二十三日、年二十七なり。議曲「俊寛」に俊寛が獨り鬼界島に流されて悲歎のさまを叙せるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

法性寺の修行僧、源大納言雅俊の孫、木寺法印寛雅の子、清盛の専横を悪み、藤原成親等と窃かに後白河法皇を擁して平氏を亡さんと謀る、事露はれ、治承元年鬼界島に流さる、妻子等京師にあつて悲歎甚だし、明年同流の徒皆赦されて帰つたが、俊寛はその首罪の故を以て赦されず、俊寛の妻大に歎き一書を認めて有王に托し俊寛に届けさせた、有王波涛を渡つて鬼界ケ島に赴き、これを俊寛に伝ヘた、俊寛一見して慟哭し終に絶命した、時に治承二年三月廿三日、年三十七。  (大日本人名辞書)

俊寛の鬼界ケ島に於ける悲劇を綴つたものに脇曲『俊寛』があり、近松に『平家女護島』、馬琴に『俊寛僧都島物語』あつて皆人口に膾炙されてゐる。

もとよりも此島は、鬼界ケ島と聞くなれば鬼ある所にて今生よりの冥途なり、たとひ如何なる鬼なりと、此あはれなどか知らざらん、天地を動かし鬼神も感をなすなるも、人のあはれなる物を、此島の鳥獣も、亡くは我を弔ふやらん、「せめて思ひの余りにや、「さきに読みたる巻物を又引き開き同じあとを、くりかへし/\見れども/\成経康頼と書きたる其名ばかりなり、もしも礼紙にやあるらんと巻きかへして見れども僧都とも俊寛とも書ける文字は更になし、こは夢か扨も夢ならばさめよ/\と現無き、俊寛が有様を見るこそあはれなりけれ。  (謡曲俊寬)

俊寬を画いた作

島田墨仙筆  第一回文展出品

井村方外筆  同

高瀬春暁筆  第一回自由画壇出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)