一遍上人

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いっぺんしょうにん


画題

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解説

画題辞典

一遍上人は時宗の開祖なり、父に伊豫国主河野通広、幼名に松寿丸、長じて通秀という。七歳継教寺に入り、十五歳にして出家し随縁と称す、後道を浄土宗西山派の聖達に問い、名を智真と改む。弘長二年父の喪に際して国に帰り、爾後諸国を巡錫す、建治元年紀州熊野の本宮に百日の参籠を遂げ、誓つて曰く、我一切衆生を度せんが為め融通念仏を勧進す、此意神慮に叶はゞ示現を給へと神の霊験あり、是に於て名を一遍と改め、神勅に任せ本願念仏の金札を荷い、諸国を遊行し、貴賤道俗を勧化す、故に世人称して遊行上人(ゆぎょうしょうにん)という、正応二年八月、錫を兵庫観音堂に留め、最後の法問を談し、自著の書冊を灰中に投じ、二十三日弥陀経を読了して寂す、寿五十一。明治十九年円照大師の号を勅謚せらる。一遍上人絵伝の世に伝わるもの

土佐円伊筆十二巻(京都六条道場歓喜光寺所蔵)、同筆四巻(京都御影堂新善光寺所蔵)土佐行光筆二十巻(京都四条道場金蓮寺所蔵)

土佐隆光筆十巻(相模藤沢道場清浄光寺所蔵)

皆国宝なり、藤沢寺所蔵のものは先年烏有に帰した。此外には

飛鳥井経雅筆新絵伝(藤沢清浄光寺所蔵)

粟田口隆光筆十巻(三河称名寺所蔵)等あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

一遍、幼名を松寿丸と呼び、長じて通秀と云ふ、出家して随縁、後、智真と改む、世に遊行上人といふ、姓は河野氏其先は孝霊天皇から出てゐる、天皇第三子を伊与の皇子と称し、第二世小千皇子に至り姓を賜ふ、廿世通広は即ち父である、四条天皇の延応元年生れ、七歳にして縁教律師に学び、十歳母を喪ひ十五歳の時祝髪し、名を随縁と呼んだ、後ち智真と改む、更に師命により叡山慈眼僧正に師事すること十二年、教観顕密の奥義を究め、後太宰府西山派聖達に浄教を学ぶ事十一年、其蘊奥を極め、建治元年十二月紀州牟婁郡熊野本宮に百日参籠し誓て曰く、我一切衆生を度せんと欲し融通念仏を勧進す、此教仏意に違はず、神慮に背かずば示現を賜へと、神、要偈を授て六字名号、『一遍法十界依正、一遍体万行離念、一遍証人中上上妙好華』と、茲に於て名を一遍と改め、神勅に任せ本願念仏の金札を荷ひ諸行を遊行し、貴賎道俗を勧化す、故に以て世人これを遊行上人と呼ぶ、正応二年八月錫を兵庫観音堂に移し、一日縄床に座して最後の法門を談じ、自著の書冊を火中に投じ二十三日晨朝阿弥陀経を読み畢て入寂す。時宗の開祖として尊崇せらる。勅諡円照大師。  (国史大辞典)

一遍の生涯を画いた『一遍上人絵詞』には左の数種あり、何れも国宝である。

土佐円伊筆   十二巻     京都六条観喜光寺蔵

同       四巻      京都御影堂新善光寺蔵

土佐行光筆   二十巻     京都四条道場金蓮寺蔵

土佐隆光筆   (十巻)焼失  相州藤沢遊行寺蔵

此の外に、

粟田口隆光筆  十巻      三河国称光寺蔵

最近では第十回帝展に、松尾晃華の『遊行の一遍上人』がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)