C3-3 戦前の楠木久子
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『教訓名画集』「楠木正行」
編著者:高木義賢 絵師:矢沢弦月
判型:大判錦絵 出版:昭和12年(1932)
所蔵:UPS Marega 作品番号:MM0644.
【解説】
「教訓名画集」とは戦争直前の昭和12年に出版された画集のことでここに正行母のことが紹介されている。この画集では正行母以外に豊臣秀吉、毛利元就なと偉人の画集が数多く掲載されており、構成としては前半に偉人たちの画集を載せ後半のページにはその偉人達の逸話が掲載されている。この画集にある正行の自害の場面は太平記本文ほぼそのままだが、一部脚色がなされていて正行母が正行に教訓する際に、天皇(後醍醐)に忠義をつくせばお父さんへの孝行になるといっている。このような、脚色があったり画中の解説で正行の戦死を立派だと表現したりしていることから「教訓名画集」は戦前の国民の戦争意欲を煽ることが目的で出版された画集だと考えられる。また本画集の後半には、正行母が幼少時に出くわした兄を殺害しに来た賊方の廻し者に長刀をもって勇敢に立ち向かった逸話が紹介されている。【画中本文】
正行は、父の正成が湊川で戦死したといふ知らせを聞いて、悲しさのあまり佛間に駆けこんで、腹を切ってお父様のおともをしようとしました。それを見つけた母は驚いて走り寄り、短刀を取上げで、「お前はお父様のお心をついで、賊軍をせめほろぼさなければければならない大切な體です。いま切腹してなんの役に立ちます。りつぱな大将になって、天子様に忠義をつくせばお亡くなりになったお父様にこの上もない孝行になります。」と、涙を流してさとしました。正行は、母の教えをよく守り、大きくなってから四条畷で賊の大軍と戦ひ、さん に敵を苦しめて、りっぱに戦死をしました。【本文】
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楠木正行は今から六百年ほど前の人で、楠木正成の子であります。父の志をついで、非常な手柄をたて、遂に四条畷で、立派に討ち死にをしました。正行がこのやうに忠義な人になれたのも、母の教えをよく守ったからであります。ここでは特に、まさつらの母についてお話をいたしませう。 楠木正行の母は、南江備前守正忠といふ河内の國の立派な武士の妹で、久姫といふ名でありました。 小さい時から学問も武芸もすぐれ、とりわけ、長刀を上手につかひました。 十五、六歳の時のことでした。秋の夜更けに、勉強にもつかれたので、美しい月をながめようと縁に出ますと、ふと、木の陰から黒い姿をした怪しい大男が見えました。 久姫は、じーっと様子をみて ると、大男は足音をしのばせて正忠の る奥座敷の方へ歩いて行きます。 「いよ 怪しい男。」と久姫は、うしろから、「待て。」と、り しい聲で呼びとめました。 大男は、ハッと振りかへりました。「この夜更けに何者ぢや、名乗れ。」 久姫の聲には勇気があふれて ました。そのしっかりした様子に驚いた怪しい大男は、じり と塀のほうへさがって逃げようとしました。 それを見た久姫は、逃がしてはいけないと、急いで座敷から長刀を持ち出し、さっと走りよって、「えいッ」とさけんで、男の足をはらひました。とたんに、男が刀を抜いて斬ってか りました。が、久姫がヒラリ と身をかはすので、どうしても斬れません。 「曲者 。」と久姫がさけんだので、正忠はじめ家来達が、どや と集まって来て大男をしばり上げました。そして、調べると、これは、賊方の廻し者で、忠義な正忠を殺さうとしたのでした。 久姫はこのやうに男勝りの気象のしっかりした人だったので、夫の正成をたすけて忠義をつくし、また正行をよくいましげはげまして、賊を平らげさせようとしました。 正行が戦死して後は、尼になって敗鏡尼と名をかへ、朝から晩まで念仏を唱へて、賊が早くほろびるやう、天子様の御運がひらけますやうに、といのりくらし、六十一歳で亡くなるまで、すこしの間も忠義の心を忘れませんでした。 -