C2-0 勾当内侍...

 勾当内侍は、本来宮中で天皇に仕える女官のうち、掌侍という律令制における女官の1つである役職だが、後醍醐天皇に仕えた長橋の局と呼ばれる女性をさす。本名は不明だが、藤原経伊の娘ともいう。新田義貞の妻となったとされ、『太平記』の中に描かれた二つの場面のイメージによって広く認知されている。
 新田義貞が後醍醐天皇に仕え、宮中の守護をしていた時に勾当内侍を見かけ彼女に一目惚れする。 自分の想いを歌にして勾当内侍に届けるが受け取ってもらうこともできなかった。この話を知った後醍醐天皇の計らいにより歌を贈ることに成功し、新田義貞の勾当内侍へ対する思いはより強くなった。その後、新田義貞は新政権から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れた。しかし、2月から3月にかけて新田義貞は勾当内侍との別れを惜しみ、尊氏追撃を行わなかった。その後湊川での合戦で敗北し、後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸を転戦するが、越前藤島で戦死する。
 後に新田義貞からの迎えが来たので、勾当内侍は北陸へ向かうが、杣山(福井県南条町)において新田義貞の戦死を知ることとなり、新田義貞の首が獄門に懸けられているのを目にして落胆する。その後勾当内侍は黒髪を剃りおろして比丘尼になったという。
 参考作品としてあげた『女武勇粧競』には、女官として凛々しい姿で描かれる。本書の目録略述によれば、世間では新田義貞が勾当内侍の色に迷ったことを誹るが、正史としてはそうした事実は認められず俗説であるとする。
 勾当内侍と新田義貞の関係がより印象的に描かれている場面が二つ存在する。一つ目は
、京都において新田義貞が勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したという場面である。次に勾当内侍が新田義貞の戦死を知り、京で獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になるという場面である。勾当内侍像は、傾国の女として美貌が強調されると同時に、愛する人との別れを惜しむ悲劇性をもって認知されているのである。(平.)

【二つ目に、勾当内侍が義貞の滅亡の遠因を作った女性であったとされている。】
【参考作品】
『女武勇粧競』上(大英博物館所蔵 JH105)