C01道頓堀の賑わい

「浪華道頓堀 二替芝居積物一覧」
絵師:菊水茂広 判型:大々判/錦絵
出版:元治2年(1865)1月大坂
資料番号:arcSP02-0431 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 積物とは、贔屓客から特定の役者に贈られた品物を劇場前に積み上げて披露する慣例のことである。基本的には顔見世興行の際に行われたが、役者の移動や襲名披露といった場合も行われた。一年間の座組お披露目を目的とした顔見世興行の形式は江戸時代以後無くなったが、積物の慣例はその後も残ることとなる。現在では酒樽が積まれることが多いが、江戸時代の積物は酒樽・米俵・炭・薪など実に多様であった。この積物見たさに大勢の人々が劇場前に訪れたと云われ、本図においても積物の前を大勢の人が埋め尽くしている様子が描かれている。積物の後ろに櫓が5つ確認できる。その中でも中央に2つある櫓は右側が中の芝居、左側が角の芝居のものである。道頓堀に常設の劇場が誕生したのは慶安の頃で最も古い劇場が角の芝居とされている。道頓堀は芝居町として栄える前は荒野であったがその地を芝居町とするべく、立ち上がった安井道頓の名が地名の由来となっている。この当時から角の芝居と中の芝居は大坂を代表する歌舞伎劇場であった。
 本図は、役者の移動と襲名披露による積物であるため、顔見世の時期からは外れ二の替り興行時の様子を描いている。19個の積物の山があり、その中でも「尾上多見蔵・市川市蔵」が5つと一番多いことが確認できる。本文中には「・・・角の芝居尾上多見蔵は別座と成りて・・・」と書かれている。ここで記されている「別座」とは歌舞伎役者の地位を表し、座頭や立女形と同格の役者のことを指すため、二代目多見蔵の役者としての地位がこの時期に上がり、その祝いとして多数の品が贈られているのだろう。多見蔵と共に名前が挙がっている市蔵とは多見蔵の息子にあたる三代目市川市蔵を指す。本図には記述されていないが、多見蔵と市蔵は共に角の芝居に出勤していたことから贔屓客から連名で贈られてきたと考えられる。
 多見蔵は京都の床山の家に生まれ、最初の頃は宮地芝居を活動の主な拠点として、上方と江戸を行き来していた。次第に中村座や角の芝居といった規模の大きな劇場にも出勤するほどに実力をつけた。この人気は容姿からではなく、様々な役を器用にこなし、観客を盛り上げることに全力を注ぐ役者であったからである。多見蔵は、しばしば客席の反応を見て突拍子も無い行動に出ていたようで、安政元年「国性爺合戦」二段目にて和内藤を演じた時、虎退治の場面で虎に扮した早竹虎吉という軽業師を使い開場を盛り上げるといった奇抜な演出を行っていた。この他にも様々な工夫を凝らし、石川五右衛門の「太鼓抜け」と称し客席の上に吊し上げた太鼓が割れ宙乗り状態の五衛門が登場するという仕掛けに連日大入りとなった。この様な取組は研究熱心と評価する声と共に、品が無く・やり過ぎであるとの評価の声も上がっていた。この様に多見蔵の評価は人により分かれるが、本図ではなかなかの人気を誇っていたことがわかる。(青.)

【翻刻】
 今年元治二乙丑正月下旬より川竹両芝居二の替りの節 中の芝居ニて延三郎は父の名二代目実川額十郎と改 座頭を被勤 忰延太郎は二代目実川延三郎と改 又角の芝居尾上多見蔵は別座と成りて梅舎が五代目三枡大五郎と師の名を続(つい)で是も同く座頭を勤らるゝ 折から諸方より立る幟は美吉野ゝ一目千本ニも異ならず 米俵酒樽炭薪の積物の夥しき事 東は日本橋より西は戎橋西江入町迄軒を並べて積上たり 是を見物ニ来る人にて道頓堀は爪もたゝぬ人群集は前代未聞の賑ひなり
二月五日初日より廿五日までは場さじき上下共不残売切て断書を出し 又青楼より芸子の花を置て行に翔あるきてさがせども一人もなく皆々芝居の約束也 かゝることは誠と思ひ儲けぬ事なれば 近辺は軒に十樽廿樽を積て用水を出し 昼夜火の本に心を付 其混雑筆紙にものべがたく爰に百部が一を画に著して此ことを見ざる遠き国々の人にもつたへ又は後の世ニかゝる事のありしなど徒然の物がたりニもなし 昔なつかしといふ人もあれかしと愚かにも書しるす事とはなりけらし

 改名を祝す 芝居の角中や どちらを見ても 千金の春
 心あらん人に 見せばや川竹の 芝居わたりの 今の景気を
                      合ノ亭 歌鳴