大分府内城

府内城は、かつてこの地を治めていた大友氏の居館に慶長2年(1597)入った石田三成の妹婿であった福原直高が、大分川の河港「荷落ち」の地に築城を開始し、2年後には望楼型の四重天守を持つ城の大半を完成させたといわれる。関ヶ原の戦い後、城主となった竹中重利が当初の天守を新式の層塔型へと改めるなどの大改修を行ない、慶長12年(1607)、北側は海、東側は大分川河口の湿地帯を天然の要害として本丸、二の丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配置された城を完成させた。その後寛保3年(1743)、城下からの出火で天守ほか多くの建物が焼失し、以降天守は再建されなかった。焼失を免れて明治維新後も残っていた着到櫓や大手門なども戦災で失われ、人質櫓・宗門櫓を残すのみとなっていたが、昭和40年(1965)に大手門と4基の櫓が復元され、翌年西丸と山里丸を結ぶ廊下櫓が復元された。

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