島原城
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元和2年(1616)九州の外様大名の牽制とキリシタン対策という大きな任務を与えられて島原に入った松倉重政は1618年(元和4)森岳という小山に築城を開始し7年をかけ、総石垣で五重天守と3基の三重櫓、38基の平櫓などが配置された4万石の大名としては分不相応の壮大な規模の島原城と城下町を完成させた。しかし築城のための重税と賦役、キリシタンへの弾圧、過酷な年貢の徴収などが要因となり、寛永14年(1637)農民たちが天草・島原の一揆を起こした。島原城では、すぐさま一揆鎮圧の兵を出し深江村で戦ったが勢いに押され退却し籠城戦法に切り替えた。一揆勢は城下を焼き原城に立て籠もるが幕府により鎮圧される。この責任をとらされて松倉氏は断絶。その後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と譜代大名が入れ替わり明治を迎えた。