名護屋城
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国内統一を果たした豊臣秀吉は、大陸進出を目指すようになり、その前線基地として天正19年(1591)名護屋城の築城を九州の諸大名に命じ、突貫工事により数ヶ月で巨大な五重天守が建つ総石垣造りの大城郭を完成させた。朝鮮出兵のための城(陣城)ながら城域は約17万㎡にも及び、広大な御殿建築や10基を超える重層櫓、茶室、能舞台まで備わり、伏見城や聚楽第にも匹敵する絢爛豪華な城であった。全国から参集した諸将は名護屋城の周りに陣屋を構え、その数約130の陣屋跡が確認されている。慶長4年(1599)秀吉が病死すると戦いは終結し、名護屋城は廃城となり城の用材は唐津城の資材にされたという。その後残っていた石垣も、1638年の島原の乱で廃城であった原城が不穏分子に利用されたことを教訓として破壊されたと考えられている。