今治城

今治城は、藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に海砂をかき集めて1602年(慶長7)築城を開始し1608年(慶長13)完成をみた。直線的な城壁で囲まれた三重の曲輪と、海水を引き入れた三重の幅の広い水掘り、主要な虎口には枡形門、高石垣には多門櫓などを配置し、高虎の築城手法が遺憾なく発揮されている。また、本丸には、それまでの望楼型天守と異なり、各階がほぼ均等に逓減(次第に小さく)する日本初の層塔型の五重天守が存在したといわれる。しかし城の完成直後に高虎が加増のうえ伊勢・伊賀に国替えされたため、天守は伊賀上野城に移築する目的で解体されたが、1610年(慶長15)の丹波亀山城天下普請の際に家康に献上され移築されたという。ただ、今治城には天守台がないことから「天守がなかった」という説もあり決着がついていないという。高虎の後に入った養子の高吉も伊賀名張へ国替えとなった。以降の城主は松平(久松)氏となり明治に至った。

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