広島城

毛利輝元により太田川下流の三角州に1589年(天正17)から築城が開始された。2年後の1591年(天正19)輝元は郡山城から移り入城したが「島普請」と呼ばれるほどの大規模な土地造成で城の完成には10年を要した。築城にあたっては豊臣秀吉の大阪城や聚楽第の影響を受けたといわれ、五重五階の大天守に三重三階の小天守を配し渡り廊下でつなぐ連結式天守をはじめ、本丸を囲む内堀に面して23基の櫓があったという。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、輝元は萩に移され、代わって福島正則が入り堀を何重にも巡らし88基の櫓や10基の門などでさらに防備を固めるとともに、城下町の整備を行い全国最大級の広大な城となった。しかしその後、台風によって被害を受けた本丸や石垣などを1619年(元和5)幕府に無断で修理したため、武家諸法度違反で改易。次に浅野長政が入り明治まで続いた。

1945年の広島市に対する原爆投下により、広島城は天守を含むほとんどが焼失しました。その後、1960年に天守閣は復元され、現在の姿となっている。また、表御門、太鼓櫓、多門櫓、平櫓などが木造で再建されている。

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