岐阜城

もとは稲葉山城といい、鎌倉時代に砦が築かれたのが始まりである。本格的な城として用いたのは斎藤道三であり、大規模な改修をした。永禄10年(1567年)に織田信長が斎藤龍興を追放して本拠地と定めた。それに際してもとの縄張を破却し新たに造営した。この時、名前を岐阜城と改めた。信長の天下統一のための拠点として用いられ「天下布武」の印判を使い始めたのは岐阜城を居城としてからである。本能寺の変後は織田信雄や池田輝政が城主となり、関ヶ原の戦いでは西軍の前線基地とされ、東軍の福島正則らに攻められ落城した。戦後に廃城となった。

金華山の標高329メートルに築かれ、城からは岐阜市街や長良川が一望でき、防御的にも攻撃的にも優れた位置にありました。特に「天守」の位置は、当時の最先端の戦闘技術を活かした設計がなされ、織田信長の軍事的才能を象徴している。現在ある天守は復興天守であり実在の物とは異なり、南蛮様式を取り入れた珍しいつくりであったとされている。

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