一乗谷城

15世紀後半に朝倉敏景によって築城されたとされる。応仁の乱により荒廃した京都から公家や歌人等の文化人が多数避難してきたため、京都の影響を受け大きく発展し最盛期には人口1万人に達したとされる。明応8年(1499年)には将軍足利義稙が来訪した。さらに、永禄10年(1567年)には足利義昭が上洛のために朝倉義景を頼って訪れた。義景は歓待するが、家中の意見がまとまらず結局、義昭は織田信長を頼り美濃へと向かった。天正元年(1573年)の刀禰坂の戦いで朝倉氏が織田信長に滅ぼされると一乗谷は織田軍により火を放たれた。越前を与えられた柴田勝家は本拠を交通の便の良い北ノ庄に置いたため、一乗谷城は廃城となった。

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