七尾城
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正長年間に三管領家の一つである畠山氏によって築城されたのが始まりである。「七尾」という名前は城が七つの尾根にまたがっていることに由来しているとされ城の巨大さが窺える。150年間に渡って畠山氏の居城として用いられ次第に拡張、改修されていったとされる。天正4年(1576年)に能登国に侵攻した上杉謙信によって包囲された。畠山氏は織田信長に救援を要請し七尾城は1年もの間持ちこたえたが、重臣同士の対立を背景に孤立、それによる内応者により織田軍の援軍は間に合わず落城した。謙信の死後、織田軍の攻勢により七尾城には前田利家が入城した。豊臣政権下において交通の便を重視し、居城の移転に伴い七尾城は廃城となった。
標高305mの山上に築かれ南北約2.5kmに及ぶ巨大な城である。中世の山城であるが、低石垣を5段に積み重ねた本丸の石垣など各曲輪にも石垣が多く使われそれらの多くが現存している。城内には重臣の遊佐氏、温井氏の館もあり畠山氏の居館とは独立する形であることから家中の中でもとりわけ地位が高かったことが分かる。城下には総構や砦が築かれており城下も一体となった防衛が行われた。また、応仁の乱後は、畠山氏の治世が安定していたため京都から多数の公家や歌人が訪れ句会や連歌の会が催された。