上田城
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天正11年(1583年)に真田昌幸によって築城された。当時、真田昌幸は天正壬午の乱を経て徳川家康に従属しておりこの築城は上杉氏に対抗するために徳川家康の協力のもと築かれた。しかし、真田昌幸は天正壬午の乱の後処理への不満から上杉氏へと寝返ったため、天正13年(1585年)徳川軍は上田城を攻めた。真田軍に対して数倍の兵力を有していた徳川軍であったが、真田昌幸の巧みな戦術に翻弄され、撃退された。豊臣秀吉の死後、真田昌幸は西軍に属し関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠の軍勢に攻められた。10倍以上の徳川軍を前に城を守り切り秀忠軍の進軍を大幅に遅れさせた。この結果、秀忠の軍勢は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。戦後、真田昌幸は九度山に配流され、上田城は破却された。元和8年(1622年)に仙石忠政が入封されるとしろの再建に着手し、近世城郭として現在の姿に整えられた。現在の本丸の建物に加え二の丸にも櫓が築かれる予定であったが、仙石忠政の死により中断し、以降は改修されなかった。仙石氏の後は、松平氏が入封し幕末まで続いた。
本丸を南側に置き二の丸で本丸の北、東、西を囲む作りになっており、これは当時は南側に千曲川が流れておりそこに接する断崖絶壁を利用していたためである。城の三方は川と総構に囲まれ、唯一の攻め口である東側は湿地帯が広がっているなど防御に適したつくりとなっている。本丸には本丸御殿がなく2つの櫓門と7つの櫓があり、三の丸に藩主の居館があったことから城の改修が未完成であったとうかがえる。西櫓は江戸時代から現存しており、東櫓、北櫓、東虎口櫓門、石垣が復元されている。