武田氏館
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躑躅ヶ崎館とも呼ばれる。甲斐国守護・武田氏の居館として永正17年(1520年)に武田信虎によってつくられた。居館の完成とともに信虎は家臣たちを城下に集住させた。また、館自体は防御のための施設ではなかったため館の背後に詰城として要害山城が築かれた。 信虎は足利義晴と通じており、館の建築にあたっては将軍の御所の影響を受けたといわれている。信虎の子、信玄の代になり、周辺諸国に勢力を拡大しても武田家の本拠地であり続けた。数度の改修を行っているものの本格的な城郭に改宗されることはなかった。勝頼の代になり、1575年(天正3年)長篠の戦で敗北すると領内で動揺が広がり、大規模な城がない甲斐国の防御を不安視した勝頼は防衛力の強化のため1582年(天正10年)に本拠地を新府城に移した。しかし移転の直後、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡、新府城は焼き捨てられた。武田氏滅亡後も甲斐国の主城として機能し、徳川家康によって天守が築かれた。1590年(天正18年)に徳川家康の家臣である平岩親吉によって甲府城が築かれると廃城となった。
周囲を水堀と土塁で3重に囲まれた中世の武家屋敷であるが、東曲輪や西曲輪など多数の曲輪があり、虎口や馬出などの武田氏の城郭の特徴とされる防御施設もある。内郭と外郭が石積により区切られており、東曲輪で政務がとられ、中曲輪や西曲輪は党首やその家族の居住スペースであったとされる。現在は武田神社として整備されている。