江戸城

扇谷上杉家の家臣である太田道灌が前身となる城を築城した。1590年(天正18年)に関東に転封となった徳川家康によって居城に定められ、江戸幕府が開かれると天下普請によって大規模な拡張工事が行われ日本で最大規模の城となった。江戸時代を通じて政治の中心として機能し、政務の場に加え将軍の居住スペースや大奥などの女性たちが住む場所も設けられた。明暦の大火によって天守を含む建物が焼失したが、幕府の財政や江戸の城下町の復興を優先させるため天守は再建されなかった。戊辰戦争において慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの後、新政府軍は徳川慶喜の追討のため江戸城に向かって進軍し包囲した。同年3月15日を江戸城総攻撃の日付と定めるも西郷隆盛と勝海舟との会談により江戸城の無血開城が決定した。明治時代に明治天皇が京都から行幸した際に皇居として定められた。

天下普請によって全国の大名が動員されて築かれたことから全国の物資が使用されており、石垣に使われた石は伊豆から運ばれた。天守は5重5階で最大の大きさであり、慶長、元和、寛永の三度にわたって築かれた。城は外郭と内郭に分かれており、外郭には大名屋敷や旗本の屋敷が置かれ、内郭には本丸、二の丸、三の丸、御殿などの主要な建物が置かれた。城の外郭を囲むように総構が築かれ、当時の城域は現在の千代田区と中央区がすっぽり入る大きさであり、総構の長さは豊臣秀吉の大阪城の倍の長さがあった。度重なる火事や地震によって建物の多くが失われており、現在は大手門や櫓が復元され清水門、田安門、外桜田門は重要文化財に指定されている。

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