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武蔵国では上杉氏と古河公方の足利氏の間で戦いが繰り広げられており、古河公方に対抗する上杉氏の本拠地として太田道灌によって1457年(長禄元年)に築城された。上杉氏の拠点として江戸城と共に防衛線の最前線を担った。しかし、1482年(文明14年)に家臣である太田道灌の名声を恐れた上杉定正は道灌を暗殺してしまう。これにより太田氏は上杉氏から離反、さらに上杉氏内でも山内家と扇谷家との間で内紛が勃発した。この内紛に乗じて北条早雲は伊豆から相模へ進出した。その子である北条氏綱は武蔵国へも進出し、1537年(天文6年)上杉氏から川越城を奪取した。1541年(天文10年)に氏綱が没すると扇谷上杉家の上杉朝定は川越城の奪回を図り、それまで敵対していた古河公方、山内上杉家と協力し1545年(天文14年)8万の軍勢で川越城を包囲した。川越城の軍勢はわずか3千であったが、城主である北条綱成の奮戦もあり半年たっても城は落ちなかった。翌年、北条氏康は川越城の救援に駆け付け、わずか8千の軍勢であったが夜襲を成功させ連合軍を撃破した。この戦いの後、武蔵国は完全に北条氏が支配することになる。城主となった北条家家臣、大道寺政繁によって三の丸が拡張された。1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐に際して大道寺政繋は前田利家の軍勢に降伏した。江戸時代になると江戸城防衛の拠点として重要度が高まり、川越藩には譜代大名が配置される。1639年(寛永16年)には松平信綱によって大改修が行われ、江戸城への交通の要衝として物資の集積地として発展し、「小江戸」と呼ばれた。川越藩は江戸時代を通じて幕府の要職を担い、老中を7名輩出した。戊辰戦争に際しては旧幕府軍として戦うも新政府軍に降伏し、廃城となった。
川越城は湿地が広がる川越台地に築かれ、築城者である太田道灌によって「道灌がかり」と呼ばれる土塁や堀などで区切った曲輪を並べるという縄張りが展開されている。曲輪同士の連結した入り口には食い違い虎口や横矢がかりなどの仕掛けが作られ敵の侵入を防いだ。松平信綱の改修によって城の面積は約2倍となり、13の城門と、幅18m、深さ7mの水堀を備えた巨大城郭となる。本丸御殿は江戸時代から現存しておりこのような城は川越城と高知城しかない。
川越城