多賀城
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多賀城は724年に按察使大野東人が築城したとされる。朝廷が律令制によって蝦夷を支配するための軍事拠点として作られ、平時は陸奥国の国府が置かれた。度重なる反乱により何度も焼失するが修築、改修を繰り返し東北地方の政治・軍事・文化の中心地として機能した。発掘調査の結果から11世紀中頃には国府としての主要な役割を終えたと考えられている。
多賀城の南面から西側にかけての地域には、東山道の延長部分である南北大路と多賀城南門から南辺築地と平行する東西大路が建設され、さらに、8世紀後半には、河川を改修し運河を整備するなど水陸両交通を兼ね備えた都市建設が始まった。東西大路に面した場所には都から赴任した上級役人の邸宅があり、下級役人や庶民などは大路から離れた場所に住んでいた。一方、南北大路沿いには大型の建物が建ち並び公的な機関が置かれたと考えられている。