E 赤穂城

1645年浅野長政が赤穂に入り、熊見川の河口の三角州の地に1648年に幕府から築城許可を得て13年後の1661年、星形に似た曲輪を持つ海に面した平城として完成をみた。築城にあたり家臣の甲州流軍学者近藤正純の「横矢を生かすための折れを多用した縄張り」が特徴であり、さらに山鹿素行(山鹿流軍学の祖)が築城途中であった二の丸虎口周辺の手直しを行った。天守台はあるが天守は造られず、曲輪の全周は鈍角の折れと短い直線で防御機能の強化を図っている。1694年に断絶した水谷氏の備中松山城を家老大石良雄(内蔵助)が受取りを行ったが、1701年に松の廊下事件で浅野氏は断絶した。

赤穂城は1661年に完成した比較的新しい城である。その頃は戦もなくなり城の縄張りも方形の単調なものが多くなった。ただ、赤穂城は様々に屈曲した縄張りを持った実戦を意識したものになっている。これは軍学者である山鹿素行が築城に関わったためであると思われる。石垣も死角を無くすために角の部分が丸くなっている。

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