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作品名:「当世名物鹿子」「神社仏閣の一の富」
出版:文政12年(1829)
絵師:徯斎英泉
判型:大判錦絵
所蔵:MFA Boston(MFA-11.22948)「当世名物鹿子」は、徯斎英泉の美人画であり、「神社仏閣の一の富」では、富札を販売する仲買である富札屋(札屋)前にたたずむ女性を描いている。あくまで錦絵であるため、実際の光景を忠実に再現したものではないだろうが、富札屋がわかりやすく描かれているため紹介する。御免富が再び規制されたのは天保の改革(1842)からなので、規制以前の錦絵ということになる。
美人の視線の先にある富札が並べられた板には、茅場町、福徳稲荷、白旗いなり、両国という文字がみえる。これらの地名は御免富が行われる各興行所である。従来、富くじの起源は摂津箕面の瀧安寺(仁和寺という説もある)に始まり、江戸では谷中感応寺を中心に行われていたといわれている。当初瀧安寺では当選者へ修正会秘法の御守を渡していたが、やがて金銭が結びつくようになり、町中に広まり始め身持ちを崩す者も現れたため、富くじは元禄五年(1692)に初めて禁令を出された。しかし、幕府は統制下の寺社仏閣には御免富として正式に運営を許可するようになり、なかでも有名なのが谷中感応寺、湯島天神、目黒不動の「三富」である。この三富の他、浅草寺や福徳稲荷神社、杉森稲荷神社、子院も含めると数えきれないほどの寺社仏閣が関わっている。
そして店の上にぶら下げられている張り紙には、「壱番 賽金三百両 壱割差引」と記されている。壱番というのは最高賞金額で、これが三百両であり、当選した場合は興行主に一割が利益として徴収される、ということだろうか。寺社側は一般的に、これらの利益を寺社の再建や修復といった費用に使っていたようである。
天保の改革以降、江戸で禁令が出された後も、地方での興行はなかなか止まらなかった。(内田)参考文献
滝口正哉『江戸の社会と御免富』岩田書院、2009年
貨幣博物館『企画展「江戸の宝くじ「富」一攫千金、庶民の夢」図録』、2018年(参照 2021-01-07)
A3-3-1「当世名物鹿子 神社仏閣の一の富」 - 富くじ