D0 助六

 正徳3年(1713)4月江戸・山村座の「花館愛護桜」の一幕として初演。助六を2代目市川団十郎が演じた。現在のような「助六実は曽我五郎」となり、よりやつし芸としての和事に重点を置いて演じたのは、正徳6年(1716)中村座の「式例和曽我」の時からである。また、2代目団十郎による三回目の上演、寛延2年(1749)3月中村座で、現行の演出が出来上ったといわれている。宝暦11年(1761)3月市村座で、九代目市村羽左衛門が演じたときに河東節「助六所縁江戸桜」の浄瑠璃名題を始めて使った。「助六」は、演じる俳優によって外題が変わり、市川家の場合、「助六由縁江戸桜」であるが、尾上家の場合は題を清元で「助六曲輪菊」となる。その後、市川家や弟子筋の役者が演じ続けたが、天保3年(1832)3月七代目市川団十郎の四度目の上演のときに「寿狂言十八番の内」と銘打って上演され、これが切っ掛けとなって「歌舞伎十八番」が成立した。
 筋としては、花川戸助六実は曽我五郎は紛失した家宝の刀「友切丸」を捜しており、人の多い吉原へ通いわざと喧嘩を売っては刀を抜かせて友切丸かどうかを調べている。そしてついに友切丸を持っているのが髭の意休であることをつきとめる、というだけのものだが、省略せずに上演すると三時間を超える大曲であり、しかも場面の変化に富んでおり飽きさせない。歌舞伎本来の娯楽性が横溢する作品である。本コーナーでは、助六の扮装や踊りの姿に着目してみる。(山a.)

【参考作品】
作品名:「歌舞伎十八番之内 東京桜俳優見立」
出版:明治12年(1879)4月 東京
絵師:周重
判型:大判錦絵 3枚続
所蔵:立命館ARC(arcUP3808~3810)