踊形容外題尽

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総合

Odori keiyo gedaizukushi


三代歌川豊国画「踊形容外題尽」について      赤間 亮 (『論究日本文学』85号 2006年12月発行) 

はじめに

 三代目歌川豊国こと、初代国貞(以下、国貞で統一する)はその最晩年、自らの絵師の活動を回顧し、かつ江戸歌舞伎の歴史を辿るがごときシリーズものを何作か手懸けている。その最大のものは『古今俳優似顔大全』であろうが、この揃い物の前にも、役者の芸系を示す類似のシリーズが幾つかあり、なかでも、歌舞伎の演目に注目したシリーズに『踊形容外題尽』がある。

 このシリーズは、一般的に過去から制作時現在までの歌舞伎の演目から、その見せ場となる場面の舞台面を大判竪1枚で描いたものとして認識されているだろう。この時期の役者絵は、周知の如く大判竪型の横3枚続きが標準的な形式であり、まれに大判横型で描いたものもあるが、これも舞台面を横長に構図を切取ることになり、竪1枚での舞台面は、ある意味で迫力を欠くことにもつながる。そのため、図柄として特段に面白いわけではなく、また役者絵ということで、海外でもその内容が理解されるのに不利な条件のもとにあることから、これまで話題に上ることは少なかったと思われる。  坪内逍遙は、「演劇史料としての我が国の芝居絵 并びに其図表」のなかで、役者絵の分類の試みを述べており、その第一部演劇史料の(二)として、

どういふ劇が最も歓迎され来つたかを知る為に特に用立つべきたぐひのもの。例へば、三世豊国筆の『踊形容外題づくし』六十餘枚の如きがそれである。この類の錦絵を取集めて見ると、容易く且つ具体的にわが従来の興行目録を知ることが出来る。

と述べている。しかし、この『踊形容外題尽』のような、興行目録として即座に使える役者絵は、ほとんど存在せず、その意味では逆に非常に特殊な作品と言えるのである。

 幕末の浮世絵界は、その販売ルートを拡大するだけに止まらず、描く題材も多種多様になり、独立して口に糊すことのできる絵師たちが急速に増えていったものと予想される。絵師ごとには、その得意とするジャンルがあり、それぞれが様々な企画を示して、大衆の購買意欲を刺激していった。歌川一門は、その商業活動の中で勢力を伸ばし、その棟梁としての国貞は、とくに利益の高かったと思われる役者絵で大きな収入を得ていた。  晩年の国貞は、さらにシリーズものによって莫大な利益をあげたと思われるが、最晩年になって、あまり利益のあがりようもない過去の役者や演目までも含んだ歌舞伎の歴史を描いている。『踊形容外題尽』シリーズは、安政三年(1856)からスタートしている。ちょうど日本では、大地震があいつぎ、江戸でも安政二年十月の大地震で大きな打撃を受けた。浮世絵師にとっては、鯰絵の大流行や、さらにその前年の八代目団十郎の自殺による死絵の大量生産などで、これまで国貞やその一門が培い、ある意味では安住してきた歌川派の序列とシステムをまったくひっくりかすような状況も続いている。そうした中で、国貞は、自分の絵師としての活動を振り返り、文化以降からの自分の絵師としての活動の歴史を、歌舞伎の歴史と重ね合わせて描こうとしたもののように受けとれる。こうした目的の中で描いた作品群には、天才的な才能を示した役者似顔絵の技術と同時に、歌舞伎舞台そのものを魅力的に描く技量、延いては幕末期の歌舞伎を捉えた国貞の目が、如実に示されていると思うのである。  今回、このシリーズの全貌がほぼつかめたと思えるので、そのリストを提示しおおかたのご批判を仰ぎたい。なお、本稿では、加えて、その中で見えてきた改印にかかわる現象についてもふれることになろう。

「踊形容外題尽」の概要

 このシリーズが何枚で揃いなのかについて、これまで触れたられたものはないようである。先に引用した坪内は「六十餘枚」としているが、その内容までは踏込んでいない。  日本大学総合学術情報センターには、帙に「踊形容外題尽 完」との書題簽のある画帖がある。背には、同じ外題の他、「豊国画 安政五年 五十圖」とあるが、〈51図〉が貼り込まれている。この画帖は、冒頭に目録を持つ。(図1)  図をみてもらうと明らかなように、目録上の外題名は略称を使っており、その下にはこれも略された役名と役者名が書込まれている。  この日大所蔵本に収録されている作品は、安政五年(1858)四月までのものであり、天保の改革以降、役者絵の画面上に役者名が復活するのは、文久元年(1861)二月からであるから、まだ、これらの収録作品には役者名が記されていない。そのため、役者名は目録作成者による判定と思われ、間違いも多く、似顔が判定できていないものもある。  この画帖が貴重なのは、帙の裏側に記された次の記述である。   「安政五戊午年菊月中浣造之 松井氏」 これにより、この画帖が所蔵者松井氏によって安政五年九月中旬に成されたことがわかるので、収録された作品の内、最後の改印である安政五年四月から五ヶ月ほどたって制作されたものであることが判明する。後述の一覧でもわかるとおり、安政三年十月から安政四年十二月までは、ほぼ毎月作品が残り、安政五年に入ると三ヶ月を置いて四月に3作品が認められるという状況の中で、「踊形容」というタイトルのシリーズの売出しを九月まで待った松井氏は、七月に類似に作品が出たものの「踊形容」が出ないので、おそらくこのシリーズが完結したものとみて、画帖としてまとめたものと思われる。「松井氏」がいかなる経歴の人であるかは、管見にして手掛りを持たないが、上述のとおり、目録作成者も松井氏とすれば、歌舞伎通というよりは、むしろ一般愛好者レベルの人であったとみられる。  この日大所蔵本は、一冊の貼込帳で51枚もの作品が貼り込まれていることで注目できるが、残念なことに現在のところ、

  • 安政4・1 「高木織右武実録」(嘉永元年八月中村座上演)

の1枚が欠落していることが分かっている。これを追加して「踊形容外題尽」シリーズに含まれる作品は、52枚でとなる可能性がある。  次に、改印を基準に制作順にグループ設けて、列挙してみる。作品番号は、基本を日本大学所蔵本に置き、演劇博物館(その他の番号)所蔵本で補った。なお、その他の所蔵機関にも本シリーズの所蔵が確認できるが、今回は省略した。

<表1>

 この一覧をみると、

    • A上演中の作品
    • B弘化四年以降(おそらく役者絵解禁以降との認識だろう)の過去の作品
    • C文化期以前の過去の作品

の三群に分けられことがわかる。 (一)期においては、上演中の三座を各1点ずつ描き、過去の演目Cからもバランスよく三座を配置しているが、売れ行きを考慮したためか、河原崎座は、児雷也の八代目団十郎を中心に描いている。(二)期では、市村座のみ上演中の顔見世公演を描くが、過去の作品Bに集中している。これは(三)期にもいえることであり、新狂言のない十一月から十二月は、役者絵の制作にとってはオフシーズンであるから、絵師としては、集中して文化以前の作品Cの製作に力を注ぐことができたものであろう。(四)期の正月の改印の作品も作業は、十二月に集中していたものと思われる。また、(四)期も市村座のみ上演中の作品が描かれている。 (五)期では、上演中のものに森田・中村座、また正月に出せなかった中村座の正月狂言をエントリーしているが、三枚というのは、通常の制作活動のある繁忙期であるからであろう。同じサイクルで(六)は、閑散期ゆえか、過去の演目Cのみを描いている。(七)期は閏五月と六月の上演中の作品を三座ともに配し、(四)期から始まった文化以前の作品Cを四作品制作した。 (八)(九)期は、上演中の作品か過去の作品Bといっても、近接した作品のみとなっている。このあたりからは、歌舞伎の歴史を自らが筆を握る以前の時代にまで遡って画こうという意欲が後退したか、売れ行きの関係で製作が意欲が鈍ったものと理解されようか。

 ところで、この52枚を基準に考えた場合、そのタイトルの表記は、一様ではなく、

    • 1,踊形容外題尽    39枚
    • 2,踊形容外題づくし   7枚
    • 3,おどり形容外題づくし 3枚
    • 4,おどり形容外題尽   1枚
    • 5,外題尽        2枚 =表の最下部に■とあるもの。

となっている。この内、「外題尽」とある二枚をこのシリーズに含めるべきなのかどうかについては、にわかには決めがたい。が、これらの作品には次のような共通の特徴がある。(図2)

    • 大判竪判錦絵1枚もの
    • 落款は豊国画に年玉枠
    • 版元は、「並木 湊小版」とあって、湊屋小兵衛。
    • 彫師名の記載は皆無。
    • 画面上部の左あるいは右に歌舞伎台本の意匠を使って、表紙と裏を重ねた形で、表側に外題、場立て、場名、配役、裏側に上演年月を記している。

 また、改印は、「改」と「年月」印で、「辰十」(安政三年十月)から「午四」(安政五年四月)まで。  対象とする歌舞伎公演で最も早いものは、明和七年(1770)正月中村座の「鏡池俤曽我」(図3)であり、また最後の作品は、安政五年(1858)四月中村座上演の「恋夫帯娘評判記」(図4)である。明和七年の作品があることでもわかるように、このシリーズは、過去に遡って、上演された演目のある場面を描いたものであることに特徴がある。  なお、天保の改革以降、役者絵の画面上に役者名が復活するのは、文久元年(1861)二月からであるから、まだこの作品にはどこにも役者名が記されていない。

「踊形容」の語とその続編

 「踊形容」とは、天保の改革下で、「歌舞伎」の公演が規制された時に、代替の名称として特に宮地芝居や地方の公演時に使われたもののようであり、その番付面にしばしば目にすることができる。江戸の大芝居をさして、番付等でこの語が使われた事例を、寡聞にして聞かないが、例えば、江戸で安政元年に出版された役者評判記風の草双子に「踊形容花競」があり、この書物によって知られている。  尾崎久弥氏は、早くからこの語があらわれる芝居絵に注目し、歌舞伎や芝居の語が、天保の改革の影響というよりも「野卑を表現するやうになり、よりて芝居賛美の意から、芝居擁護者の側から、この語が生まれて、以て新しい感じに上下を緩和しようとしたものであろう」という(注1)。  前章で、タイトルに「外題尽」とのみある2枚について、一応このシリーズに含めてみた。この2枚については、タイトルに「踊形容」を欠く以外は、すべての特徴を共通しており、同一シリーズとしてみることに違和感を感じない。この2枚の改印の年月は「午四」であって、同じ改印であり、「踊形容」のタイトルを有する1枚とを併せると、同じ時期の製作作品は3枚となる。これを、対象とする芝居の上演の早い順に並べてみれば、①の「晴模様」(二月十日初日)についての改印を受けたのが四月の早い段階であり、②の「江戸桜」(三月二一日)と③「恋夫帯」(四月二日)の改が四月の遅い段階であって、ちょうど、この四月の間に、「踊形容」をタイトルに使用する何らかの理由がなくなったようにも思われる。  さらに、歌舞伎台本のデザインを使った国貞には次の作品もある。以下はすべて演劇博物館所蔵作品である。 <表2>

 以上の8作品の版元はやはり「湊小版」であり、すべて大判錦絵竪絵1枚物である。このグループの最初の1点(▲記のもの)を除いて、彫り師「彫竹」が見られるが、デザインの類似性からみても、「踊形容外題尽」シリーズの継続シリーズであると考えられる。(図5)  しかし、大きな違いは、台本表紙に配役として役名・役者名が記載されていることであり、また、こちらには1点も「踊形容」の語が使用されていない。したがって、尾崎久弥氏の指摘する以外の、なんらかの法令上な理由があったと考えたくなる。安政五年四月の前半までは、法令上で必要であった「踊形容」の語が、後半期からは、使わなくてもよくなったかとの見方も成り立つのではないだろうか。法令資料等の精査が必要かもしれない。 この(十)グループ以降を本稿では続編と呼び、本編と区別することとする。  この続編については、本編の(八)(九)期と同じく、上演中の作品のみを制作している。

2枚の同類作品

 さて、実は混乱を避けるために上述のリストから外した作品が2点ある。この2点は、「豊国画」年玉枠の国貞作品で、やはり、大判1枚、版元は湊小版であり、台帳の表紙と裏表紙を重ねるデザインを上部に持ち、角取りの枠の中で描き、改印と版元印が枠外にある、大枠でこのシリーズと共通の特徴を持っている。リストを示すと次のごとくである。

<表3>

 改めを受けた時期は、2枚とも本編の52点がもっとも精力的に制作されていた時期と重なる。  しかし、これらの作品には、他の作品と比べて、次のような特徴がある。

  • ①タイトルには、「踊形容」あるいは「外題尽」の語がなく、続編と同様、それぞれ「当ル亥の葉月狂言」、「当ル亥の弥生狂言」とある。
  • ②彫師が見あたらず、この点では本編と同様。
  • ③台本のデザイン部分に続編と同様に座名があり、表紙配役に役者名が記載されている。また、表紙の下にみえる裏表紙には、作者名の末尾の一文字が読めるようになっている。(図6)

 つまり、改印と②により、本編に含まれる特徴を持つものの、①と③により、むしろ続編と近い関係にあることになる。とりわけ③は、重要な問題を残す。上述の続編にはすべて役者名が記載されていた。先述のとおり、天保の改革で役者絵が禁止されて以降、その出版の禁止自体は有名無実化してはいたが、役者名が役者絵の絵面にあらわれるのは、文久元年(1861)二月以降であり、続編の(十)のグループは、台本のデザインを隠れ蓑に、通常の作品に三年も早く、役者絵に役者名を復活させて作例となる。  しかし、この(十二)グループの改印は、安政三・四年であり、さらに一、二年、さかのぼった事例となり、この形での出版許可は、ほとんど不可能に近いと思われ、到底改印を受けた直後の出版があったとは考えにくい。それが証拠に、タイトルが続編グループと同一であるわけである。  続編に見える彫師との関係から言って、おそらくは台本部分のデザインをのぞいて、検閲を受け、出版されずにストックしてあった図柄の作品が、続編の時期になって、台本部のデザインをこの時期に適応させて、彫直して出版されたのがこの2枚であったのではないだろうか。すると、江戸の浮世絵の場合、我々は改印によって出版時期を特定してきたわけであるが、このような例外が存在するのだという点を考慮しないといけないことになる。  さて、そのように見てくると、(十)のグループの2枚についても、なぜ早めに役者名を記載できたのか、疑問がでてくる。あるいは、これも、元絵は、この時期に描いて改印を受けていたものが、文久元年二月以降にまとめて出された可能性も想定しておく必要も出てくるのである。なぜなら、安政五年九月に「踊形容外題尽」を画帖化した松井氏は、この八月に改めを受けた(十)の2作品を取り込んでいないのであるから。  さて、松井氏の画帖からずいぶんと時間を経て、我々はこの「踊形容外題尽」シリーズの出版結果を探ることができるようになった。このシリーズのさらなる発見が待たれるところであるが、本稿では、正編52点と、続編8点、追加2点の計62点を「踊形容外題尽」シリーズの総数として報告しておきたい。

類似の作品群

ところで、このシリーズに影響を与えたと思われる作品を紹介したい。  弘化四年(1847)の盆狂言と菊月狂言を対象に、国芳によって描かれた「見立外題尽」というグループである。(図7)

  • ①弘化4・7河原崎座「大塔宮☆鑑」 『大塔宮曦鎧 とうろう渡しの段』(100-5265)

  「右馬頭妻花園」(<4>尾上梅幸)「斎藤太郎左衛門」(<4>中村歌右衛門)

  • ②弘化4・8中村座 二番目大切「壇浦兜軍記」『檀の浦兜軍記 琴責の段』(100-4074)

  「岩永左衛門」(<2>尾上多見蔵)「あこや」(<2>尾上菊次郎)

  • ③弘化4・9河原崎座「義経千本桜」 『義経千本桜 渡海屋の段』(100-4345)

  「安徳天皇」(<1>中村音次郎)「すけの局」(<4>尾上梅幸)「義経」(<2>市川九蔵)

いずれも大判錦絵2枚続き(伊場仙板)。「見立外題尽」とは、弘化四年ということもあり、役者絵を正々堂々とは売り出せない時期に行われたカモフラージュとしてのタイトル付与であったことは疑いなく、国貞のような特別なシリーズ化を狙ったものとはいえないであろう。現に、嘉永期以降、このタイトルの作品を国芳が残していることを寡聞にして聞かない。  しかしながら、台本をデザインとして使い、外題や場名までを作品上に表示する意匠は、おそらくこの作品が先行しており、国貞にとっては、「踊形容外題尽」シリーズを企画するにあたって確実に影響を受けた作品といえるだろう。なお、「せりふ書抜」の形で画中に描き入れるものは、初代豊国らに作例がある。  一方、逆にこの「踊形容外題尽」シリーズから発想を得た作品もある。  芳年には、役者の背景全体に台本をデザインにした、

  1. ④万延1・3市村座「加賀見山再岩藤」 『当ル弥生しん狂言』  (100-7845)

大判錦絵二枚続き(角金版)があり、デザインの構想は、「踊形容外題尽」から来ていると思われる。  また、芳幾には、

  1. ⑤文久3・2市村座「三題咄高座新作」『当ル亥の春 三題咄高座新作』

 (100-5942)   『第二番目序幕 大川端百本杭の場 狂言作者河竹新七』 大判錦絵2枚続き(加賀屋吉右衛門板)がある。台本のデザインは、表紙のみであるところが、国貞作品と異なる。当時の酔狂連・興笑連による三題噺の大流行を背景に、自ら酔狂連の一人である作者河竹黙阿弥が、歌舞伎で三題咄を取り上げ、それをまた酔狂連の中枢メンバーである芳幾が描いたものである。さらには、市村座の好評を受けて、中村座でも三題咄を歌舞伎に取り込んだときに描かれた、  ⑥文久3・3中村座「源平盛桜柳営染」二番目「花暦三題咄」  (101-6748)   『当ル弥生の三題ばなし たばこの火 歌うち 酒盛 酔狂連 奥笑連』 の大判錦絵3枚続き(丸屋徳蔵板)がある。こちらは、台本の形態的イメージは使っているが、表紙に記載された情報は、右の通りであり、三題噺のタイトルを書いた寄席の舞台で「めくり」のイメージも重なっているのだろう。  さらに国周にも、  ⑦文久3・3守田座「けいせゐ面影桜」二番目大切「風曲五色の花篭」 『風曲五色之花篭 第二ばん目大切 歌川国周 片田彫長』 (都立N090-002) の大判錦絵1枚、大黒屋吉之助板があることも加えておく。  このように文久三年二月から三月にかけて、台本デザインの役者絵が集中的に製作されている。すでに、国貞による「踊形容外題尽」シリーズが文久元年の段階で終止符が打たれており、弟子達による台本デザインの追随になんら問題がなくなっていたことも一因であろう。その当の国貞自身もこの動向をみたのか、  ⑧文久3・3中村座「源平盛桜柳営染」『当ル亥の弥生狂言 源平盛桜柳鴬染』(100-8513)   『第一番目三立目 新清水花見の場 作者瀬川如皐 版元栄久堂』 を出している(図8)。やはり画中に台本をデザインし、外題や場立の表記がある。現在、管見にして、この大判錦絵1枚を知るのみであるが、その構図から、あるいは2枚続、3枚続である可能性が高い。国貞にとっては、「踊形容外題尽」シリーズの再開とも受け取られるが、版元は、栄久堂であり、画中、彦三郎一人が描かれていて、明らかに趣向そのものが「踊形容」シリーズとは異なる。「踊形容外題尽」続編から2年間の空白があることでもあり、シリーズの一環としての意識はなかっただろう。むしろ、注目すべきは、改印が「亥二改」であり、上演初日が三月一三日であるにも関わらず、「見立猿嶋惣太 坂東彦三郎」と「見立」の文字が見えることである。この時の興行資料をみても、彦三郎に何らかの支障があったことは記されておらず、あるいは、これも改めを受けてから遅れた発売であったかとも思うが、今はその根拠を持たないし、その理由も明らかにしえない。  念のため確認すれば、⑤から⑦までの作品はいずれも、上演初日以降の改ではない。以上はすべて、演劇博物館所蔵である。  明治に入っても、なお、明治七年(1874)に国周の「新板狂言外題尽」があり、その他の絵師にも数点の作例が認められる。以下、リストのみ提示しておく。N、Mの番号は都立中央図書館所蔵、その他は演劇博物館所蔵である。 <表4>

おわりに

 この時代、浮世絵師は、舞台の上演に合わせて役者絵を描き、瞬時の、しかし、大量の需要に応えて作品を生産していくシステムの中にある。しかし、国貞は、過去の上演に遡って、記憶する人もいなくなった演目をも対象に画いた。そうした目的や意識はどこにあったのか。また、それらには、その典拠となる元絵が存在すると予想されるが、どの作品がそれにあたるのかを捜索する作業も残っている。こうした作業を経て、さらに国貞は、過去の膨大な演目の中からこれらの演目をなぜ取上げたのか、それらが幕末期にいてどのような評価をうけていたものかなど興味は尽きないが、今回は、作品の内容に踏み込んだ分析ができていなかった。引き続き考究していきたい。

【付記】  本稿は、立命館大学アート・リサーチセンター「テキストとイメージ」プロジェクト(文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業)、立命館大学21世紀COE「京都アート・エンタテインメント創成研究」書物と絵画プロジェクトの成果である。また、日本大学総合学術情報センター資料については、アート・リサーチセンターと共同プロジェクトで開発した「歌舞伎番付閲覧システム」活用した。また、浮世絵調査にあたっては、アート・リサーチセンターと演劇博物館が共同で推進している「浮世絵検索システム」を利用した。本研究で示された成果は、このシステムを通じて「早稲田大学演劇博物館浮世絵検索システム」に反映される。  本稿を著すにあたり、日本大学総合情報学術センター、早稲田演劇博物館に図版掲載の許可をいただいた。記して謝意を表したい。

  • 注1 尾崎久弥「「踊形容」に就いて」(『江戸軟派雑考』大正14・6春陽堂)