白河尚歯会

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しらかわしょうしかい


画題

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解説

画題辞典

古今著聞集に曰く「承安二年三月十九日、前大宮大進清輔朝臣、宝荘厳院にて和歌の尚歯会を行ひたり、七叟散位敦頼(八十四)、神祗伯顕廣王(七十八)、日吉弥宣成仲(七十四)、式部大輔永範(七十一)、右京権太夫頼政(六十九)、前式部少輔維光(六十三)、清輔朝臣假名序かきたりけり、敦頼衣冠に櫻のあつ衣三を出して鳩杖をつきて久利皮の沓をはきたり、清輔朝臣は布衿をぞ着れりける、進退の間、大貳重家御裾をとり、皇后宮亮季経朝臣沓をはかせけり、両人清輔朝臣が弟なれども、座次の上﨟にてありけるに兄をたふとみて深く此礼ありけり云々」すべて尚歯会、多くは詩会こそ侍るに和歌めつらしき事なり、古く絵詞一巻あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

前項(尚歯会)白河で尚歯会の行はれたこと、『古今著聞集』巻四に載せられてゐる、曰く。

尚歯会は、唐の会昌五年三月二十三日、白楽天履道坊にして、始めて行ひ給ひける、我朝には、貞観十九年三月十八日、大納言年名卿、小野山庄にして始めて行はれけり、又安和二年三月十三日、大納言在衡卿、粟田口の山庄にて行はれける、其の後、天承元年三月二十二日、大納言宗忠卿、白河山庄にて行はれけり、七叟算、三善為康年八十三、前左衛門佐藤原基俊七十六、前日向守中原広俊七十、亭主七十、式部大輔藤原敦光朝臣六十九、右大弁実光六十三、式部少輔菅原時登六十二、この中に基俊は病によりて詩ばかりおくりけり、時登序をばかきたりけり、垣下に中納言師時以下侍りけり、詩披講以前に、朗詠少従楽天三年の句を唱へて四五度におよぶ、右大弁式部大輔ぞ詠じける、又岸風論力の句蓬鬢商山の句、酔対花の句等再三詠じて既に幽興に入りにけり、昔はこの座にして盃酌ありて、或は詩を作り、或は管絃を命じて、心に任せて遊戯しける、今ぞかやうの事も絶え侍りぬる、口をしきかな。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)