虚無僧

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こむそう


画題

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解説

画題辞典

普化宗の僧徒にして、古く行脚修行の為めに薦席を携えたるより薦僧と呼ばれしが、後虚無空寂の義より虚無僧と改めたり。足利時代には「三味紙ぎぬ肩にかけ、面桶腰につけ、門戸に立ち尺八か吹く」を姿とせしが、江戸時代の初より「勇士浪人一時の隠家たり」という様のこと称え出て、社会に一勢力ある階級となり。武士の復讐を志すもの又は一時その身を隠す要あるこのなど、之に投じて形を虚無僧に改むるもの多くなりたり、尺八、天蓋、袈裟又は掛絡を宗具とし懐剣等の準帯を許されたり。明暦頃より元禄頃までは常の編笠にて白布の単衣を上に著たる風俗なりしが、明和頃より莟める形の笠を用い、丸括の帯締め、伊逹なる風となりたりという。その姿は画として図せらるゝ所少しとせず、浮世絵画家の間には又女虚無僧の画多し、

磯田湖龍斎、勝川春章等に此作あり、下村観山に亦此力作あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

普化僧ともいひ鎌倉時代から起つて江戸時代に盛となつた普化宗の僧徒の名で世は虚仮にして実体なしと観じて心を虚にするといふ主張から名づけられたもの、一説には鎌倉時代に紀州由良の法灯国師が入宋して普化禅師の法孫張無尽から虚鐸の曲を受け、帰朝の時法晋、宗恕、国佐、理正の四居士を伴つて来て鈴鐸を尺八に代へ経を誦ずるにも譜に合せてこれを吹いたもので当時法灯の弟子金先が最も吹管に妙を得、諸国を行脚、下総の小金に一寺を建立し金竜山一月寺と名づけた、後、室町時代に至り朗庵といふものが普化の作法を慕うて唯尺八を携へ到る処薦蓆に坐つてこれを吹いた、当時戦乱の世であつたから浪々の徒がこの風を真似て薦蓆を腰につけ尺八を吹いて民家に乞食したが、これが薦僧の名称の起原だといふ。

虚無僧、こもそうと音読す、故に或は菰僧と云ふか、普化禅師を祖とす、故に普化僧とも云ふ、梵論寺とも又ぼろ/\とも云ふ、京師に出るは明暗寺の部下か、江戸に出る者は下総小金村一月寺の部にて浅草に一月寺の役所と云あり此宗門種々の定制ありと聞く、予が知るべきに非れば記さず、又僧の托鉢修行の者甚多く諸宗皆行之ども唯普化僧の扮の異るを以て記之、余は皆略之、三都虚無僧の扮大同小異あり、頭に天蓋と号す編笠をかむり、尺八と云笛を吹く、袈裟を掛て法衣を着せず、藍或は鼠色の無紋の服を着す、粗なるは綿服多く、稀に美服を着すもあり、三都如斯也、蓋京坂は平☆(糸偏+裃の旁)の男帯を前に巻結にし、三衣袋を首にかけ施米銭を是に納む、帯の背に尺八の空囊を挟み垂れ。別に袋に納たる尺八を刀の如く腰にさし五枚重の草履をはく、又江戸は三衣袋を掛ず空囊を挟まず、別笛を腰にするは同上也、衣服も亦上に同と雖も、裾ふき多く、綿厚く女服の如くし又、女服の如き緋縮緬の長繻絆を着す多し、丸☆(糸偏+裃の旁)の帯を前に大形に結び黒漆の下駄をはく、又美なる者は京坂は三衣袋尺八袋二とも同製繍を用ひ、善美を尽し他准之、江戸は尺八袋一つを繍或は唐織にして衣服及繻絆を美にす、如此は市民の富者或は武家の蕩郎等也。旅行には藍の綿服に脚絆甲掛に草鞋をはき、平☆(糸偏+裃の旁)帯前結び三衣袋をかけず尺八一口を持一口を腰にさし柳合利の横二尺許なるを浅黄もめんの風呂敷に包み負之、天蓋或はかむり或は風呂敷の上に置く、江戸虚無僧文政天保頃甚昌にして美服の僧多く又普通粗服の者も多し、大略嘉永安政頃よりか美粗ともに見之こと甚稀となる、慶応の今に至りては廃絶の如くなれども此宗の廃絶には非ず、唯修行に出る僧の稀なる而已。  (守貞漫稿)

虚無僧は浮世絵に若衆又婦女のこれに擬したものを画けるが多い。

奥村政信筆  『若衆虚無僧』   広瀬喜兵衛氏蔵

鈴木春信筆  『名残の虚無僧』  春信集所載

大津絵    『女虚無僧』    三浦直介氏蔵

鳥居清満筆  『虚無僧』     清水直治氏蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)