王安石

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おうあんせき


画題

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解説

画題辞典

王安石は宋中世の政治家にして、又唐宋八大文豪の一人に数へらる、字は介甫、撫州臨川の人なり、初め進士上第に擢でられ、准南の判官たり、後仁宗皇帝の時、万言の書を上り、嬌世更俗を痛言せしも用ひられず、神宗皇帝の時翰林學士となり、次いで参知政事となり、建議して創めて三司の條例司を制置し新法を行ふ、曰く周に泉府の官を置いて天下の財を変通す、後世惟り桑弘羊劉晏祖は此意に合す、今泉府の法を修めて以て利権を牧むべし云々、實に外夷の侵寇に堪へず、是が屈辱を雪がんが為めに財源を得るなりと、均輸.青苗、募役、市易、方田、均税、保甲、保馬の諸法は印ち新法として頒布されたる諸法なり、是れ何れも営利の法なりしかば、物議騒然、一法布かるゝ毎に万言の非議あり、天下挙げて之に反抗す、安石途に解職を請ひ相を辞す、哲宗の元裕元年六十八歳を以て卒す、荊国公に追封せらる、亦一代の傑なりといふべし、安石が柘榴歌の「動人春色不須多、万縁叢中紅一點」の句は最も人口に膾炙する所となす。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那宋代の碩学、字は介甫牟山と号す、撫州臨川の人、少時より文才があり、友人曽鞏、これを欧陽修に薦め名を知らる、廿二歳で進士となり、仁宗の嘉祐五年四十歳の時三司度支判官となり尋で知制誥の閑職に転じ、英宗の時は概ね不遇であつたが神宗即位するに及び先づ江寧府の知事となり、それから特旨により入京し神宗を扶けて政治上の大改革を行ひ、富国強兵を図つたのであるが、その政策強硬に過ぎて保守派と対立し、遂に目的を達することが出来なかつた、殊に之に反対したのは蘇東波父子や韓埼、司馬光等であつた、これによりて神宗の親任漸く薄らぎ、哲宗の時司空の栄官に就いたが、前の如き得意な時代は無かつた、元祐元年六十六で歿した、唐宋八家の一人で詩文に巧で彼の石榴を賦した句中、『万緑叢中紅一点』の文字は洽く人口に膾炙さるゝ所である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)