欧陽修

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おうようしゅう


画題

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解説

欧陽脩とも。

画題辞典

欧陽修は宋期の文豪なり、字は永叔、吉州廬陵の人。七歳にして父を喪ひしも、母賢にして修をして貧苦の間に修学せしめ,進士に挙げしめたり。仁宗の朝、学士院に召試され、後諫院に知となる。此時富弼等の名士朝に列せしを、小人等之を陥ることあり、修為めに朋党論を作りて上書す尋いで議に会うて除州の知となり。更に母の喪に官を去リしが、後復仕へて参知政事となる。神宗の世.王安石の新法を不可として大に論ずる所あり、熙寧五年六十六を以く卒す、太子太師を贈らる。修性温雅、然れども大節に臨みて屈せず聖人の風あり、其の文は虚節の体を排して古文の簡にして要を得たるを喜ぶ。蘇東坂其の文集に序して日く「欧陽子大道を論ずるは韓愈に似、事を論ずるは陸贄に似、事を記するは司馬遷に似、詩を賦せば李白に似たり、是れ天下の言なり云々」。

芥子園画伝に其像あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那宋代に於ける詩文の大家で唐宋八家の一人、吉州廬陵の人、字は永叔、号を酔翁、晩年に一六居士といふ。韓退之の文章を慕ひ詩風文体を改め蘇舜欽、梅舜臣を凌ぐに至る、翰林学士より兵部尚書に進んだが王安石の新法に反対して貶黜され観文殿学士、太子少師に至つて致仕し熙寧二年卒す、年六十六、諡して文忠公といふ、その作『秋声賦』最も人口に膾炙さる。収めて『古文真宝』にある。

     秋声賦

欧陽子方夜読書、聞有声自西南来者、悚然而聴之曰異哉、初析瀝以蕭颯、忽奔騰而砕湃、如波涛夜驚風雨驟至、其触於物也、鏦鏦錚錚金鉄皆鳴、又如赴敵之兵御枚疾走、不聞号令、但聞人馬之行声、予謂童子此何声也、汝出視之、童子曰、星月皎潔明河在天、四無人声声在樹間、予曰、噫嘻悲哉、此秋之声也、胡為乎来哉、蓋夫秋之為状也、其色惨淡、煙霏雲斂其容情明天高日晶、其気慓冽、砭人肌骨、其意蕭条山川寂寥、故其為声也、凄々切々、呼号奮発、豊草緑縟而争茂、佳木葱籠而可悦、草払之而色変、木遭之而葉脱、其所以摧敗零落者、乃一気之余烈、夫秋刑官也、於時為陰、又兵象也、於行為金、是謂天地之義気、常以粛殺而為心、天之於物春生秋実、故其在楽也、啇声主西方之音、夷則為七月之律商傷也、物既老而悲傷、夷戮也、物過盛而当殺、嗟夫、草木無情有時飄零、百憂感其心万事労其形、有動乎中必揺其情而以思其力之所不及憂其智之所不能宜其渥然丹者為槁木黟然黒者為星星、奈何非金石之質欲与草木而争栄、念誰為之戕賊、亦何恨乎秋声童子莫対、垂頭而睡、但聞四壁虫声喞々、如助予之歎息。

欧陽修の像は『芥子園画伝』に載するものあり『秋声賦』は古来好画題として南画人多く之を描く、近く池上秀畝に其作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)