歌川国芳

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うたがわ くによし


歌川国芳は初代豊国の門人で、寛政九年に生れ文久元年三月六十五歳で没。 法名は深修院法山信士、浅草の大仙寺に葬むられたが、墓は後に千住飛地に、現在は国分寺市戸倉に移る。本姓は井草孫三郎。一勇斎、朝桜楼と号す。

作画期:文化九年頃(1812)~万延一年(1860)

画号等:国芳、一勇斎、採芳舎、朝桜楼。画姓歌川。隠号に一妙開程芳。

歌川国芳は幕末における人気浮世絵師の一人であるが、そこまで上り詰めるまでには不遇の時代を過ごさなければならなかった。才能は早くに芽生え、12歳のときの絵を見て初代豊国がその筆力に感心したといわれている。なかなか名が挙がらず、31歳にしてようやく「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」シリーズによって一躍脚光を浴びた。

「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」シリーズの内

デビュー作が「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」のような武者絵であったことからもわかるように、国芳は豪快で画面を大きく使った作品を多く残す。しかし、国芳の描く題材は武者絵にとどまらず、美人画、風景画、役者絵、戯画など幅広く手がけた。


〈参考文献〉

『浮世絵事典』画文堂

『原色浮世絵大百科事典 第二巻 浮世絵師』東京:大修館書店

『国芳・英泉:英山・国長・国虎/歌川国芳ほか画』 鈴木重三編 ぎょうせい 1991年10月

『奇想の系譜 又兵衛ー国芳』 辻惟雄 美術出版 1970年3月

『国芳妖怪百景』 須永朝彦 国書刊行会 2003年4月

歌川国芳伝

(飯島虚心「浮世絵師歌川列伝」より)

歌川の門流中、筆力秀勁にして意匠巧妙なるは、蓋し国芳におよぶものかなるべし。国芳は井草氏、俗称孫三郎ー絵双紙目録集に太郎右衛門。幼名芳三郎、一勇斎と号し、米沢町、長谷川町、新和泉町字玄冶店等に移る。又向島に住せしこともありたりと。一説に甲州の産なりといい、又甲州は本国なりと云疑うべし。父は柳屋吉右衛門、母は柏谷氏、後に出でて井草氏を継ぐ。