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「新形三十六怪撰」 「三井寺頼豪阿闍梨悪念鼠と変ずる図」

画題:頼豪阿闍梨

絵師:芳年

落款印章: 芳年

版元:佐々木豊吉

出版:明治24年(1891)

頼豪

物語

白河院の御在位の時、京極大殿の御娘が后に立てられ賢子の中宮と申し、たいそうの御寵愛を受けられた。主上は、この方の御原に皇子の誕生を望まれ、当時霊験あらたかと聞こえた三井寺の頼豪阿闍梨を召して「この后の腹に、皇子ご誕生あるよう祈り申せ。ご願成就の暁には、勧賞(褒美)は乞うままに取らす」と仰られた。頼豪は「やすきことにござりまする」と承引して三井寺に帰り、百日の間、肝胆をくだいて祈り申しましたところ、間もなく中宮は御懐妊、承保元年(一〇七四年)十二月十六日、御産平安にして皇子が誕生あそばされた。主上も一方ならず感服なされ、頼豪阿闍梨を召して、「所望のほどはいかに」とお尋ねになった。頼豪は三井寺に戒壇を建立したき旨を奏上したが、主上は「一階僧正などを願うてくるかと思うたが、これはまた存外の所望じゃ。そもそも皇子を儲けて皇位を継がしめんと致すは、海内の無位を願うためなるぞ。今、汝の所望を聞き届けなば、山門の憤りをまねき世上の騒擾は必須じゃ。両門合戦におよび天台の仏法も滅ぶであろう」と仰られて許されなかった。頼豪は「口おしきことなり」と申して三井寺に帰り、干死せんとした。主上は大いに驚き給うて、そのころはは未だ美作守であった江帥匡房卿を召して「汝は頼豪と師壇の契りありと聞く。行きて説得せよ」と御下命になった。綸言をもった美作守が頼豪の宿坊に出向き、勅定の趣を仰せ含めんとしたところ、護摩の煙で酷くふすぼった持仏堂に立てこもり、恐ろしげなる声にて「天子には戯れの詞なし、綸言汗のごとしと申すではないか。所望の叶わぬ時は、それがしが祈り出したる皇子なれば、取り返し奉り、魔道にお連れ申す」というばかりで、遂に対面もしなかった。頼豪は、その言に違わず程なく干死を遂げ、主上の叡慮を煩わせる事となった。やがて皇子は御病を発せられた。様々の御祈祷が執り行われたが、ご回復の様子はみられなかった。錫杖を持った白髪の老僧が皇子の枕もとに佇む姿が、人々の夢にもあらわれ、幻にもたち、それは、恐ろしいなどと申すものではなかった。然る程に、承歴元年八月六日、皇子は御年四歳にて遂におかくれになった。平家物語 (日本古典文学幻想コレクション奇談)

人物

寛広元年(一〇〇四)生、応徳元年(一〇八四)没

平安時代後期の天台僧。実相房阿闍梨。藤原宇合の子孫で、伊賀守藤原有家の息子。

「寺門伝記補録」に三井寺権僧正心誉の弟子とある。顕密の学に優れ、効験あらたかな僧としてその名を馳せた。

敦文親王は、承保四年(一〇七七)九月六日、この年流行した疱瘡で亡くなっており、頼豪はその七年後の応徳元年(一〇八四)五月四日に亡くなっていることから、頼豪呪詛説話は史実とは言いがたい。ただし、頼豪が戒壇建立に関与したことについては「寺門伝記補録」の巻二に、後三条のとき、三井寺が戒壇建立を朝廷に奏上したが受け入れてもらえず、これを頼豪は憂え、帝は病にたおれ崩御されたという話から事実として捉えられよう。


日本奇談逸話大辞典

文献に登場する頼豪

・延慶本

さて、頼豪、「山の支へにこそ、我が宿願は遂げざりしか」とて大なるねずみとなりて山の聖教食ひ損じける間、「此のねずみを神と祝ふべし」と宣議ありければ、社を造りて神に祝いて後、彼のねずみ静まりにけり。東坂本にねずみのほくらと申すは即ち是也。今も山には頼豪ねずみとぞ申すなる。頼豪よしなき妄執につかれて、多年の行業を捨て、畜趣の報を感じけるこそ悲しけれ。 (延慶本平家物語全注釈) 

・源平盛衰記

頼豪は非常に苦労して祈祷し、皇子が誕生されたが、戒壇の建立が許されなかったので大悪心を起こし飢え死にしたのは無残であった。そうするうちに山門ではまた皇子がお生まれになるようお祈りして誕生を見、御位につかれると、頼豪の死霊はさらに一層怖い悪霊となり、山門あがあるからこそ、わが寺に戒壇を建立することがゆるされないのであるから、山門の仏法を亡ぼしてやろうと大鼠になり、谷谷坊坊に沢山ある聖教を食い散らかした。これが頼豪の怨霊の祟りであるとして、身分の上下の別なく、鼠を打ち殺し踏み殺したが、ますます鼠がふえてきておびただしいと言うほかなかった。これはただごとではない、怨霊をなだめなければと鼠の宝蔵をつくって神にまつった。 (完訳源平盛衰記)


・太平記

頼豪ガ亡霊忽ニ鉄ノ牙、石ノ身ナル八萬四千ノ鼠ト成テ、比叡山ニ登リ、仏像経巻ヲ食破ケル間、是ヲ防グ術無クシテ、頼豪ヲ一社ノ紙ニ崇メテ其怨念ヲ鎮ム

(太平記)

・愚管抄

持仏堂ノアカリ障子ゴマノ煙ニフスボリテ、ナニトナク身ノ毛ダチテヲボヘケルニ、シバシバカリ有テアララカニアカリ障子ヲアケテ出タルヲミレバ、目ハクボリオチ入テ面ノ性モミエズ、白髪ノカミハナガクエオホシテ (日本奇談逸話大辞典)


鼠の社

観音堂へ上る石段の脇に祀られる十八明神は、本来は伽藍を守護する神ですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。

白川院の時、当寺の頼豪阿闍梨という高僧に皇子降誕を祈誓するよう勅命が下りました。 まもなく祈祷の験あって皇子が誕生し、その賞として当寺念願の戒壇道場建立の勅許を得ました。

ところが、比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、 これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。 その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと 「太平記」は伝えています。

この社は、この時のねずみの霊を祀っているために北の比叡山の方向を向いて建っているとも 伝えられています。


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[1]


おそれをなした延暦寺は比叡山のふもとにある日吉大社にみ霊鎮めの小さなほこらを建てた。それが「鼠(ねずみ)の秀倉」こと「鼠社」という。  古くは「平家物語」に登場する。しかし権禰宜(ごんねぎ)の須原紀彦さんは「神社の言い伝えでは違います」と口を開く。  安土桃山時代、当時の宮司が書き記した「神道秘密記」は、伝説を「非説なり」と真っ向否定。十二支の最初「子」を祭ったほこらであると記す。  「ネズミは穀物を食べるなど人の生活を荒らします。『災いの元』という人々の認識が史実と結びついたのでしょうか」と須原さん。延暦寺は京都の鬼門にあり、かつて呪術が盛んであった。日吉大社はその鎮護社である。怨霊封じ伝説も根付いたのもうなづける。  人の世が揺れるたび、妖怪は跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。恐ろしくもユーモアたっぷりの妖怪奇譚(たん)は、時代の作家を刺激した。「画図百鬼 夜行」「伊勢参宮名所図会」など想像性豊かなネズミの妖怪が登場する。近年では京極夏彦さんが鉄鼠を題材にミステリー小説を発表している。  戦火や災害などの災いは神社の境内を縮め、社の数を減らした。だが「鼠社」は飛地になっても今に残る。魅力的な妖怪物語のためか、巨大ネズミの怨念(おんねん)がなせるわざか。  「鼠社」の御利益は「ネズミよけ」という。だがマンションが建ち、一軒家にもネズミ害対策される現在、小さなほこらに手を合わせる人も少なくなった。今は例大祭「山王祭」での御輿(みこし)巡幸の競争での終点としての役割を果たすばかりである。

[2]

歌舞伎

『鵺森一陽的』明和七年(一七七〇)中村座

『貞操花鳥羽恋塚』文化六年(一八〇九) 市村座

『入舟曽我和取楫』安政四年(一八五二)森田座

『相生源氏高砂松』万延二年(一八六一)守田座

『相生源氏松緑葉』 明治一五年(一八八二) 市村座


『入舟曽我和取楫』『相生源氏高砂松』『相生源氏松緑葉』は、読本『頼豪阿闍梨恠鼠伝』を下地にして脚色したもの

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頼豪阿闍梨恠鼠伝

滝沢馬琴 著   1808年 木曽義仲の遺児、美妙水冠者 義高は頼朝への復讐のため修行者の姿に身をやつしての諸国遍歴していた。 途中、近江国粟津にある父の墳墓にもうでる、雨宿りに入った庵のでうたた寝をすると、 夢の中で走るねずみを追いかけ、そのねずみが岩の下にもぐっていくと岩石は砕け、中から老僧が現れる。 これは頼豪阿闍梨の神霊であった。頼豪は白河帝に対する恨みを述べ、 かつて義仲が、頼豪の祠に征夷大将軍となるために願書を寄進した話を語り、その縁から助力する旨を述べ、 義高にとり憑き鼠を使役する術を与える。

『昔話稲妻表紙』山東京伝 1,806年


絵画

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『相生源氏松緑葉 頼豪阿闍梨』 明治15 国周

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『頼豪阿闍梨・大江匡房郷』  国芳

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『画図百鬼夜行 鉄鼠』 鳥山石燕 安永五年(一七七六)

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『入船曽我和取楫』 安政四年 豊国  国卿

『武勇見立十二支 子 頼豪』 国芳 

『近江名所図会』挿絵 1815年


『美勇水滸伝』 芳年 画像:80796578frth

画像:須美津冠者義高

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パターン1

頼豪は人間の姿で描かれている。怨念であるためか形相は怒っている。鼠を伴っていることもある

パターン2

頼豪は人間の姿ではなく、大鼠の化け物として描かれている。

パターン3

頼豪阿闍梨恠鼠伝の主人公、義高が描かれている。

まとめ

芳年の絵はおそらく石燕の図画百鬼夜行の絵をモデルとしているものだと思われる。 頼豪の伝説は平家物語などに描かれているもので話の筋が完成しており、 なにか異説や外伝のような内容の異なる民話などは無いように思えた。江戸期にはいってからは読本や、歌舞伎によって知名度はあがったものと思われるものの、頼豪を単独で描いた武者絵はあまり多くは無かった。 なぜ鼠なのかはよくわからなかった。鼠の社の説でも出たが、鼠がかつての人々にとって身近な害獣であり、群れをなして襲ってきたり、巨大化したら、などという恐怖のイメージがわかりやすく伝わってくるから、かもしれない。

参照

歌舞伎登場人物辞典  2006年 白水社

日本古典文学幻想コレクション奇談 1995年 国書刊行会

太平記 二  1961年 岩波書店

完訳源平盛衰記 二 2005年 勉誠出版 

延慶本平家物語全注釈  2007年 延慶本注釈の会 汲古書院

日本奇談逸話伝説大事典 1994年 勉誠社

ふるさとの伝説3幽霊怨霊  1989年 ぎょうせい

馬琴中編読本集成 第九巻 2000年 汲古書院

[3]

[4]

歌舞伎データベース [5] 

立命館大学ARC浮世絵データベース [6] 

早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム [7]