Z0688-2-009

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総合

新形三十六怪撰 為朝の武威 疱瘡神を退く図

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絵師:芳年

出版年:明治23年

版元:佐々木豊吉




【源為朝】

平安時代後期の武将。源為義の八男。

幼い時から勇気があり勇ましく、兄たちをあにともしない荒武者であった。

十三歳の時に父為義によって鎮西に追放されるが、豊後国の阿蘇氏の婿となり九州の武士たちを支配しようとし、鎮西の惣追捕使と称した。訴えにより、召喚を命じられるが応じなかった為、父は検非違使を解官された。父の解官を聞き上洛し、保元の乱に遭遇。平清盛を撃退するが捕えられるが武芸の才能を認められ、大島に流される。そこでも島民に濫妨を働き朝廷から兵を攻められ自害をした。(三十二歳)



【椿説弓張月】

源為朝を主人公にした曲亭馬琴の本。葛飾北斎画。角書「鎮西八郎為朝外伝」

「椿説」は珍説でフィクションを意味する。『水滸後伝』になぞらえ、『保元物語』などにより、為朝が伊豆大島で死なず、九州から琉球へ渡り活躍する伝説が描かれている。

馬琴長編の第一作で、馬琴が逝去した二年後の嘉永四年、大島で疱瘡除けの神として祀られていた為朝大明神の出開帳が両国回向院であり、この頃に出版されだであろう国芳などの疱瘡除けの浮世絵もある。


【疱瘡神】

①祈れば疱瘡にかからなかったり、軽くすんだりすると信じられていた神。

②疱瘡をうつしてまわると信じられていた疫神。

『日本国語大辞典』より


以上ように疱瘡神は守護神、又は疫神かは定かではない。

疱瘡神の形相は老女で姿で描かれているが、他にも老人・子供の姿で小さく表されている場合もありそれは吉兆の意を示している。

【疱瘡】

天然痘の別称。高熱と共に顔に大小の赤い発疹が出て、それらが体中に広まり、死亡率の高い病気である。運良く完治しても、容貌に大きく影響を与えた。 これを呪術的に治癒、或は軽く済むようにしようと様々な手法が行われた。 一つに疱瘡神流しが挙げられる。桟俵に赤い御幣(疱瘡神の依り代として)や餅を乗せ川に流し、また神社の鳥居そばに捨てる。こうすることで疱瘡から快復をもたらそうとした。 そして疱瘡対策の中で重要なのが疱瘡絵である。疱瘡絵の起源は定かではないが十八世紀頃から現れている。魔よけや災難除けに効果のある色として赤(朱・丹)色の濃淡で摺られている。画題には達磨(倒れてもすぐ起きるとことから)・張子の犬・でんでん太鼓・風車(いずれも軽いことから疱瘡が軽く済む呪い)、鎮西八郎為朝・金太郎・(いずれもその強さにあやかるため。特に金太郎は赤かったこともある)などがよく用いられている。疱瘡絵は明治初期の種痘の使用が用いられ、撲滅するまで流布されていた。


<為朝が描かれた疱瘡絵>

・でんとしゃがみ構えている。(→疱瘡神が調伏している。)

・弓を携えている。

・日の丸扇子を持っている。


【国芳の作品との比較】

J・スティーブンソン氏による解説には両絵師についてそれぞれ以下のように述べている。

芳年の作品ではひげを生やすことにより彼の勇敢で力強さを表していると指摘している。国芳の作品では仲間たちを描いており、それが珍しいとされている。



【まとめ】

一人の武者が描かれ、その者は弓を携えており為朝であるとわかる。そして赤の御幣や桟俵、手形、赤の発疹のある人物が描かれていることなど本作は疱瘡における為朝信仰に基づかれた作品であることが題目がなくとも見てとれる。

本作で手形が用いられていることから、疱瘡神は疫神として描かれているのであろう。しかし為朝は疱瘡神が去っていく様子を見ているだけで弓も手に持っているが構えようとはしない。 手形は為朝の右手から落ちたように描かれ地面に着こうとしていることからも本作では為朝が疱瘡神を調伏させた後を描いているのではないだろうか。


【参考文献】

・ハルトムート・オ・ローラルムンド『疱瘡神~江戸時代の病をめぐる民間信仰の研究~』岩波書店1995年3月

・『浮世絵大事典 国際浮世絵学会』 東京道出版 平成20年6月

・『日本伝奇伝説大事典』 角川書店 昭和61年9月

・『原色 浮世絵大百科事典 第三巻 様式・彫摺・版元』 原色浮世絵大百科事典編集委員会 大修館書店、昭和57年年4月