5代目市川海老蔵

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1842年3月河原崎座 M339-026(02).jpg 1850年3月河原崎座 100-3915.jpg

享保、寛政についでの大改革は、天保12年(1841)5月15日将軍家慶の上意をうけ、老中水野忠邦によって着手された。この天保の改革では、奢侈(しゃし)禁止をモットーに、武士階級のみでなく、一般庶民にも日常生活全般に渡って厳しい統制が実施された。改革開始から2年余の間に百七十八件もの町触れが下され、風俗営業、娯楽、芸能、出版などのあらゆる方面で禁止事項が徹底されていった。 同年12月には、地本問屋株仲間の解散が命じられ、続く翌13年6月3日発令の出版統制法では、享保7年にすでに発禁となっていた異教・妄説・風俗・諷刺・好色本などが改めて禁止されただけでなく、直接検閲制と納本制(著者―板元―町年寄(掛名主)―町奉行)が新たに導入された。この制度は、1.名主単印時代(天保14年―弘化3年11月)、2.名主双印時代(弘化3年12月―嘉永5年1月)、3.名主双印と年月印の三印時代(嘉永5年閏2月―嘉永6年11月)、4.改と年月の双印時代(嘉永6年12月―安政4年)と、安政5年(1858)正月の掛名主制度廃止と問屋仲間の再興により、仲間内での自主検閲制が復活するまで約15年間続行された。 この「出版統制法」発令の翌日、天保13年6月4日には、特に錦絵と合巻絵草紙を規制する「町触」が下された。ここでは勧善懲悪物と道徳教訓物の奨励と同時に、歌舞伎役者・遊女・女芸者絵の禁止・在庫品の販売停止の申し渡しが行われ、錦絵(団扇絵もこれに順ずる)も一般出版物と同様に、町年寄(館市右衛門)の直接検閲を受けることが定められた。また更に11月の「町触」では、色数(最高八色まで)、形(大判三枚続きまで)、価格(十六文以下)が限定され、月番掛名主が草稿に改印を押すことが厳命された。こうして従来から最も重要なテーマであった「役者絵」と「美人画」の制作販売を禁止された錦絵界は、大きな打撃を受け沈滞を余儀なくされた。 しかしこの禁令下の厳しい取締りの中でも、主に国芳とその一門の絵師達(芳虎・芳艶・芳員・芳藤・芳幾・芳年等)によって、「笑い」「情報」「政治批判」等をその新しいテーマとした錦絵の戯画・諷刺画が創版され、幕末江戸の大衆の大きな人気と支持を獲得していく。14年(1843)8月国芳は、武者絵の体裁をとった天保改革の諷刺画(当時は「判じ絵」とよばれた)「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」を描き、爆発的な評判をとる。この時は官憲の追及を恐れた板元(伊場屋仙三郎)が、すぐさま在庫品の回収と版木を処分したため、国芳も版元も実刑は免れている。その後も国芳は、幕政批判の諷刺画を様々な手法を使って描き続けるが、厳禁となった「役者絵」も、魚、動物、人形、お面等を媒体にした似顔絵戯画として幾種も描き、また「美人画」もユーモアたっぷりの詞書をそえ戯画仕立てにしたものを数多く出版している。 弘化2年(1845)水野忠邦の失脚で天保改革は事実上破綻し、禁令の取り締まりも幾分緩和し、弘化末期から嘉永初期にかけて錦絵界も徐々に以前の活気をとりもどす。この頃から、巷の珍事奇談や流行に合わせた戯画・諷刺画が大衆の要求に応じた情報源として大量出版され始める。