002-1248

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文政4年から天保4年までの上演年表

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団十郎が海老蔵に改名する天保3年頃まで、可能性のありそうな範囲で鈴ヶ森の上演を年表にしている。

団十郎が改名する天保3年まで、団十郎(長兵衛)、粂三郎(権八)の組み合わせで上演されたのは、文政9年江戸中村座「花川戸三代男達」(参考図①:101-2264、ボストン美術館蔵No.11.22237-8)のみである。しかし、本図の落款、似顔はやや遅く、天保初年頃のものに近い。文政9年以降、上方を含めても合致する上演はないが、文政9年とするのは疑問が残る。


文政12年3月江戸は大火に遭い、幸四郎、団十郎など主な役者がみな上坂している。幸四郎は顔見世には江戸に戻ったが、団十郎、菊五郎、粂三郎は上方に止まり、江戸では三人不在の顔見世興業となった。それを当て込み、「世界大坂東男顔見世」(参考図101-5757)と題する三枚続きの錦絵が見立てで描かれている。  また、002-1248と同じく団十郎(綱五郎)、粂三郎(おふさ)の組み合わせで描かれた二枚続の錦絵(参考図③:日本大学所蔵・nihb73-038)があるが、この絵も該当する上演がなく、落款から文政後期~天保初年頃と考証されている。(参考:国立劇場所蔵「芝居版画等図録」ⅢNo.31)これら上演年不定の二枚続、三枚続はどれも落款が「応需国貞画」である。綱五郎、おふさの二枚続の絵も「世界大坂東男顔見世」と同様、江戸にいない両役者を見立てで描いたものではないだろうか。

002-1248の落款は二枚とも「国貞画」であるが、このころ「五渡亭国貞画」の落款ではなく、「応需国貞画」「国貞画」とある事例は、死絵、大首絵、見立絵などが多く、実際の興業に当てて描かれた物が比較的少ない。 また、両役者は、文政12年に、団十郎の長兵衛と団蔵の権八、幸四郎の長兵衛と粂三郎の権八とそれぞれ役者を違えて鈴ヶ森を上方で上演している。 以上を考え合わせると、002-1248は団十郎、粂三郎が上坂していた時分に、彼らを慕って見立てで描かれた可能性がある。よって、文政12年~13年頃の作品と考証した。