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恋合 端唄尽 浦里 時治郎

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画題:「恋合 端唄づくし 浦里 時治郎」

絵師:三代目豊国   落款印章:任好 豊国画(年玉枠)

出版年月日:万延01(1860)・10

版元名:笹屋 又兵衛

上演年月日:安政四年1857.5.7

上演場所:中村座

配役:浦里…三代目岩井粂三郎  時次郎…中村福助

■翻刻

〇ゆきのつもる おもひをぬしさんに てらのうち松 〇せたや対のいましめの〇〇 やつらエ〇く〇いあけがらす 〇が恋にゆきの〇浦里のもつげたや〇を ふ〇〇三〇〇みつけし さみせんの糸も綾 なすむ孫のうち 〇も〇ど〇〇むみどり 泡雪ときゆるこの対の思い 〇の浮〇をいとふ恋の中 〇〇〇〇〇〇や義理と いふ字にぜひもなく 夢のうつる明烏




■題材

『明烏雪浦里』『明烏夢泡雪』『明烏花濡衣』

■梗概

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山名屋の浦里に通いつめた時次郎は、親、一門、出入り屋敷まで騙り尽しても、山名屋に未払い分がかさみ、一方、浦里も身上り、年切増しまでするけれども、それにも限りがある。金がかたきの世の中、二人は追い詰められる。時次郎は人目を忍んで浦里の部屋にもぐりこみ、内緒の居続けとなったが、独り死を覚悟して立ち出ようとするのを、浦里はひきとめて、なぜ一緒に三途の川を渡ろうと言うてはくださらぬかと、くどき泣く。二人の口舌を、遣手のかやに聞きとがめられ、浦里は楼主の前に引き据えられる。時次郎は若い衆に叩き据えられ、表へつきだされる。春雨は雪吹雪となり、時次郎と切れるよう折檻される。それをかばおうとするみどりまでも共しばりにあう。浦里は時次郎との逢瀬を切なく思い起こし、今一度逢いたいと、涙にくれて正体をなくしたころ、屋根伝いに忍んできた時次郎が、二人の縄をほどき、三人一緒に塀の上からひらりと飛んだと思えば、それは全て夢であったという筋書きである。


■登場人物

春日屋時次郎

明和六年七月、江戸三河島の田圃付近で新吉原の遊女三吉野と心中した、浅草蔵前の豪商伊勢屋の子息伊之助がモデル。

山名屋浦里

新吉原みさき屋の三吉野がモデル。時治郎と切れるよう雪責めにあうが、切ることができず時治郎と駆け落ちする。禿がついていたことから上位の人であったと考えられる。

禿みどり

新吉原の山名屋の禿。原作では浦里付きの禿に過ぎないが、歌舞伎では浦里と時治郎の儲けた一女に設定された。


■配役 *三代目岩井粂三郎

1829-1882。七代目岩井半四郎の子。初め子役として岩井久次郎と名乗り江戸の舞台に勤めていたが、天保3年(1832)三代目粂三郎と改める。弘化元年(1844)父が七代目半四郎を襲名し3月中村座「姿花寝鏡山」で同席。翌2年父が没し、4年祖父が没す。文久3年(1863)中村座で二代目紫若と改める。明治15年(1882)春木座に2~3日勤めたが発病し、そのまま死去。幕末から明治初期の若女方の名優であった。

*中村福助

1830~99 四世中村芝翫の前名。二世中村富十郎の門弟中村富四郎の子が、中村玉太郎、政之助を経て、四世中村歌右衛門の養子となり、天保10(1839)年に福助と改名。万延1(1860)年まで名乗った。

物語について

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明烏は明和六年三河島田園で起きた浅草町人伊之助と吉原遊女三吉野の心中事件がモデルとされている。これを初代鶴賀若狭掾が自家の浄瑠璃に仕立て、歌詞、節付け共に彼自身であると伝えられている。明烏は新内の代表作とも言われ、他流の明烏ものも新内の明烏をモトにして作られ、名曲であることがわかる。安政四年には富士松魯中が『明烏后真夢』を自作自調し、時次郎の菩提寺である慈眼寺の墓所で心中をとげるが、法華経の功徳と、家宝の子烏丸によって蘇生する。この慈眼寺の比翼塚は浦里・時治朗のモデルとされ、「道楽停め」の祈願塚として信仰を集めた。このように明烏は人気を集め、続編も多数出された。

■作者問題について

ほとんどの文献では作者は鶴賀若狭掾だとされているが、それ以前に豊島国太夫節付きの『明烏夢泡雪』が語られていたが、あまり評判にならず、明和六年の三河島での心中事件をきっかけに、鶴賀若狭掾が節付けをほんの少し替えて語ったところ大評判となったという説もある。

新内節について

浄瑠璃の一流派。宮古路豊後掾が作った抑揚の激しい独特の芸風が元になっていると考えられている。これは豊後節と呼ばれ、豊後節に浮かされて心中や駆け落ちが流行したと言い伝えられている。江戸で人気になった豊後節だが、豊後掾が京都出身であったため、風当たりが強く「豊後節禁止」のおふれが(1739年)にだされ豊後掾は京都に帰ってしまう。しかし、豊後掾の弟子たちは、江戸に執着しそれぞれの持ち味をいかし新しい流派を名乗る。「常磐津」「清元」「富士松」などができた。「富士松」にはそれほど特色はなかったが、一門に新内という人がいて、無頼の美音であった。新内の鼻へ抜ける音にたまらない味があり、誰もが真似し、やがて「新内」と呼ばれるようになった。

■宮古路豊後掾

京の人。作詞、節づけ、演奏ともにすぐれていた。豊後は多くの世事を扱い、その官能的な表現は哀艶きわまりなく、当時の情死の一因とまで言われ、公益を害するものとして町奉行より全面禁止とされた。

■鶴賀若狭掾

若狭敦賀の人。お座敷浄瑠璃としての新内節を多数発表し、新内の作詞作曲は、ほとんど彼の手によるものだと伝えられるほどであた。

物語と絵について

この作品が物語のどの場面に当たるか考えてみたい。まず、時次郎を見てみると他の絵で見られる刀を持って

いないことがわかる。作品の時次郎の手には布のようなものが見られる。これを他の絵で探してみると

浦里と駆け落ちした後に頭に巻いているものだと考えられる。よってこの作品は浦里部屋での場面が

書かれたものだと考える。またこの作品では禿みどりが描かれていないが、共しばりの場面など

では見つけることができた。

また絵本番付でこの場面を探してみたが、見つけることができなかった。

まとめ

今回取り上げた『明烏雪浦里』は、様々な外題が用いられ、とても人気のある作品であった。

新内の代表作である明烏という脚本で、続編なども多くだされている。

今回調べることができなかったが、他の作品との違いなどを調べることによって

この作品の特徴をつきとめたい。また子役である禿みどりの立場が作品によって

変わっていることがわかったので、当時子役がどのような役割を持っていたのかなど

様々な視点から調べを進めて行きたい。


参考文献

・「歌舞伎人名事典」 紀伊国屋書店 2002.06.25

・「歌舞伎登場人物事典」 白水社 2006.05.10

・「浮世絵大事典」東京堂 2008・6

・「定本新内集」 平文社 昭和55年 12. 20

・「新内明烏考」 明治書院 昭和59年 10. 10

・「日本音楽の歴史」 創元社 昭和40年 6. 20

・「日本歌謡史」 五月書房 昭和53年 3. 25

.「名作歌舞伎全集第16巻」 創元社 昭和45年 7.10

・「歌舞伎年表第七巻」岩波書店 昭和37年3.31

・JapanKnowledge http://www.jkn21.com/stdsearch/displaymain

・ARC浮世絵検索システム http://www.dh-jac.net/db/nishikie/theater/search.htm

・早稲田大学 浮世絵閲覧システム     http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/

・椿亭文庫歌舞伎・浄瑠璃番附検索システム

http://www.dh-jac.net/db2/tub/FMPro?-db=tub1.FMJ&-lay=Layout2&-format=search.htm&-view