黄龍禪師

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おうりゅうぜんし


画題

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解説

画題辞典

黄龍禪師ほ臨済宗黄龍派の宗祖なり、名は慧南、支那信州玉山の人、姓は章氏、十一歳にして出家し、十九歳にして授戒し、三角の懐證に参す、遂に印證を得、遊方するに會會南昌の文悅と交はることあり、文悦即ち、慧南は有望の法器なれども、惜むべし未だ本色の鉗鎚を受けずと嘆じたりといふ、後慧南が懐證より受けし要を聴きて、是れ薬汞銀の如し煆に入らば流れんのみ、汝にして之を決せんと欲ぜば慈明に参すべしといひしを以て、彗南怒りて枕を文悦に投ずといふ、翌朝文悦の師は翠厳なり彼得る所あるも何かあらんと放言して発足し、途に衝嶽に登り、福巖の賢叉手の書記となる、然るに賢叉手俄に歿し、慈明其後を継ぐ慈明來りて邪解とし斥くるもの悉く慈南の懐證より得たる旨のみなりしより、翻然心を改めて慈明の室に入るに至れり、慧南曰く書記雲門の禪を學びたりといふ、試に問ふ洞山三頓の棒を放つが如き喫すべきか、慧南曰く喫すべし、慈明容を正して曰く。再び汝棒声を聞て喫すと云はゞ、雅鳴鐘鼓を聞きても亦棒を喫すべく何時か止まんと、恵南窮して室を趨出す、笠日又見えて罵られ、左右を顧みて曰く、罵ること豈慈悲法施の式ならんやと、慈明笑て曰く、罵ること是ならんやと、是に於て啓発されて、立旨を領すといふ。

傑出叢林是趙州、老婆勘破没二来由、而今四海清如鏡、行人莫以路為難

と偶を頌して辞去し、廣洞に入り、叉荊州に遊びて再び文荊に會し、我れ兄と谷泉とを得ざれば慈明を識らずといひしといふ、更に度山の婦宗寺に住し、又寧州の黄龍寺に移る、熙事二年寂、年六十八、普覺禪師と諡す。

(『画題辞典』斎藤隆三)