雪舟

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せっしゅう


画題

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解説

東洋画題綜覧

雪舟、名は等楊、雪舟はその号、また備渓斎、米元山主人、楊智客、雲谷軒等の号がある、本氏は小田、備中赤浜の人、十二三の時同国宝福寺に入り僧となつたが天性画を好み経巻を事とせず、師僧屡々之を訓したが聴かぬので大に怒り雪舟を堂の柱に縛した、日暮になつたので師僧その縛を解かうとするも雪舟の膝元に鼠が居るので驚き逐つたが更に動かぬ、よく見ればそれは雪舟が床板に滴れる涙を足の指で描いたものであつた、これから師僧も画に親しむを咎めなかつた、壮年に及び相国寺の僧洪徳禅師の弟子となり、又、鎌倉に赴き建長寺の玉隠禅師に従ふ、玉隠、雪舟のために漁樵斎の記を作る、そこで之を別号とした、常に周文如拙の絵を慕ひ、寛正年中(一説に応仁元年)便船を求めて明に入り、四明山に登つて天童禅寺第一座となる、故に後の書に四明天童第一座と記したものがある、又、扶桑紫陽等楊と書いたものもある、雪舟明にある時、画を能くする人に就いて学ばうとしたが悉く意に適はず、即ち謂て曰く大明国に師と仰ぐ人が無い唯名勝の地こそ我が師であると、是より各地の山水を写す、明王其の美を賞し勅して礼部院の壁に揮毫せしめ、又、明人の請により我が田子浦の風景を画く、当時の鴻儒詹僖為に讃を作つて曰く、『巨嶂稜層鎮海涯、扶桑堪作上天梯、岩寒六月常留雪、勢似青蓮直過氐、名刹雲連清建古、虚堂塵遠老禅棲、乗風吾欲東遊去、特到松原窃羽衣』と、明に留ること五年で帰朝した、時に四明の徐璉(字は希賢)送別の詩を贈て曰く、『家住蓬莱弱水湾、丰姿瀟洒出塵寰、久用詩賦超方外、賸有丹青落世間、鷲嶺千層飛錫去、鯨波百里踏杯還、懸知別後相思所、日在中天雲在山』と、帰朝の後、周防山口雲谷寺に住した、故に雲谷或は雲谷軒と云ふ、後去つて石見の大喜庵に居る、雪舟の画は天稟にして古人の縦跡を践まず、殊に山水に長じ亦人物を善くし、その出山釈迦、達磨、観音等に至つては筆力雄勁他の追従を許さず、或る時大内義興画を明に求めた、明人贈るに雪舟の作を以てした、義興之を雪舟に示すと、雪舟の曰く、これは老衲の明にあつた時の作であると、義興聴て己れを欺くものと大に怒つたが、その画絹の汚れてゐる所を洗つて見ると雪舟の文字が現はれたので初めて驚き召還したといふ、永正三年二月十八日歿す、年八十七。  (本朝画史扶桑画人伝)

雪舟を画いたものとしては、秋月の画いた画像が世に行はれてゐるが、近く左の作がある。

橋本静水筆  第十一回院展出品

野田九浦筆  第九回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)