鑑真和尚

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がんじんわじょう


画題

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解説

画題辞典

鑑真和尚は、律宗の開祖なり。唐揚州江陽県の人、年十四、大雲寺智満に随って沙弥となり、道岸、弘景等に就いて律及天台な学ぶ。大宝二年、従属八十余人と共に我国に来朝せんとして五たび風雨に妨げられ、天平勝宝六年正月漸くにして太宰府に著し、四月入京す。仏舎利三十粒、阿育王塔様銅支提、菩提子等献ずる所多し。聖武天皇以下就いて菩薩戒を受くるもの四百余人あり、南都に唐律招提寺を創立す、本朝の戒法此時に於て熾なり。天平宝字二年大和尚の号を授けられ、同七年五月六日、七十七歳を以て示寂す。唐招提寺に蓮行描く所の画像あり、薬師寺亦その像を蔵す。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

鑑真は支那、楊州、江陽県の人、斉淳干髠の裔、年十四にして父に従ひ寺に入り、仏像を見て出家を志し、智満禅師に就いて沙弥となり、十九歳道岸禅師に菩薩戒を受け、景竜二年、実際寺に於て具足戒を受け、尋いで東西二京に遊んで三蔵を究め、又、江淮を巡つて戒律を教授した、唐の開元廿一年わが僧、栄叡、普照等入唐して和尚の講席に列した、一日作礼して曰く、仏法東方日域に流る、而して教授の人に乏し、昔、わが聖徳太子記して曰く、わが後、二百年に異域の人真教を興さんと、今将にその期に当る、願くは東遊を事とよせと、和尚諾し、天宝二年、二弟、祥彦、道興及び徒属八十余人と海を航す、衆危険を懼れて航を上む、後、和尚航せんとすること前後五回十余ケ年の久しきに亘り、その志を変へず、遂にわが天平勝宝六年に至つて漸く来朝した、朝廷、正議大夫安宿直に勅して羅城門に迎ふ、王公より士庶に至るまで迎て礼をなす、聖武上皇、即ち戒壇を東大寺大仏殿の前に建て、親しく菩薩戒を受け給ふ、皇帝皇后皇太子以下公卿百官同じく受戒するもの四百四十人に及ぶこれ本朝に於ける登壇授戒の嚆矢である、七年二月、新田部氏の邸を賜ひ、寺を起して結界の道場とした、夏、大僧都に任じ尋いで大僧正に陞り十一月備前国の水田一百町を賜ひ、また上園地に伽藍を建てしめ、唐律招提の額を賜ふ、本朝の戒法この時方に熾であつた、天平宝字七年五月六日結跏趺座、西面して入寂した、寿七十六、葬斂の時、香気山谷に満ちたといふ。  (仏教辞林)

鑑真和尚を画いた作

僧蓮行筆  奈良唐招提寺蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)