鍋島

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総合

鍋島騒動

1590年、佐賀で鍋島家が主君龍造寺家を退け、佐賀の領主となった。これを‘鍋島騒動’という。以後、鍋島家の周囲で怪異な出来事が起こった。 1853年に三世瀬川如皐が、この事件を元に歌舞伎「花嵯峨猫魔稗史」を書いた。化け猫のエピソードは彼が付け加えたものである。


戦国時代の肥前(佐賀県)は、もともとは龍造寺氏が治めていた国である。

だが、有力な家臣、鍋島直茂にとって代わられ、鍋島家が肥前を納める事となった。

時が経ち、龍造寺家の直径である又一郎も、藩主鍋島の家臣となっていた。

囲碁が好きな肥前藩主鍋島は又一郎と囲碁をしている時に、機嫌を損ね、

又一郎を斬り殺し、その死体を庭の古井戸に隠した。

この時、又一郎の身内は年老いた母親だけであった。

帰宅せぬ息子のことを心配していると、

飼い猫である黒猫の「こま」が、血にまみれた又一郎の首をくわえてきた。

事を知った母は、藩主を呪い自害する。

そのとき、「こま」は母親から流れ出た血を、全て嘗めつくすと何処かに去ってしまう。

猫は藩主の妾(めかけ)の「お豊」を締め殺して、その姿を借りて、

夜毎、肥前藩主と過ごした為、彼は日毎に衰弱していった。

薬師達にも、これに効く薬が見つからなく、夜になると症状は悪化するばかり。

よって原因追求のために見張りを立てたが、ことごとく眠らされてしまい、

家臣達は近くの寺の住職の元まで訪ねた。

寺の僧が藩主のところで祈っていると、

家臣の伊藤惣太(小森半左衛門とも)が不寝番をしたいと言ってきた。

彼は自らの太ももを突き刺して、まどろみの術から逃れ、

美しい若い女性が、藩主の部屋に入っていくのを見た。

彼女は他に、庭の池の鯉を手掴かみで喰い荒らしたり、

部屋では行灯(あんどん)の油を嘗め、障子に映るその影は、明らかに猫のものだった。

惣太の助けによって、血を吸われずにすんだ藩主は、回復に向かい、

惣太は「お豊」は吸血化け猫であると確信し、書状を預かったと偽って部屋に入り、

「お豊」を小刀で突き刺した。

しかし、女はヒラリと身をひるがえし、部屋の奥の槍を掴むと、惣太に襲い掛かった。

だが、これは勝てぬ、と感じた女は、眼をらんらんと光らせ、

口が耳もとまで裂けた化け猫の姿となって、屋根に登り、山へ逃げ込んだ。

その後も領民を苦しめたので、藩主は大規模な山狩りを行った。

これで、妖怪は退治されたが、鍋島家はいつまでも警戒をとかなかったという。

藩主はこの騒動の後、又一郎とその母を手厚く葬ったという。 

この妖猫が最後に発見されたのは、1929年のことである。


『大妖怪伝説』  中岡俊哉  二見書房