鄭成功

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ていせいこう


画題

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解説

東洋画題綜覧

支那明末の忠臣、世に国姓爺といふ、初の名は森字は福松、鄭芝竜の長子、母は肥前平戸の士田川氏の女、七歳の時、明に渡り、二十三歳の時始めて唐王に謁見して御営中軍都督となり、尚方の剣、国姓朱を賜はり駙馬(天子の女婿)に列した、忠臣黄道周の戦歿後、明軍が振はないので父芝竜は清に降つた、成功は従はず、永暦元年十一月桂王を広東省肇慶に奉じて、将、丁魁楚と共に力戦守護したが利なく、後、廈門に拠つて三府二十七県を陥れ勢四方を圧した、三年後、朱舜水を通じ我国に援を求めたが得られなかつたので、独力潮州に迫つたが利なく、桂王は成功を延平郡王に封じ股肱の智謀甘輝は崇明伯に封じ、そして秋大拳して金陵討伐の準備を為し同十年秋八月先づ浙江省台州府を攻め、翌五月平陽福安を抜いて優勢だつたが、翌年南京で敗れ、此の間苦辛惨憺、只これ一身を明に捧げ、母を思うて東方母国を拝するばかり、永暦十四年緬甸王ベングタリが桂王を奉じて雲南諸藩と協力、成功は別に廈門を固め大に清軍を破つたが、偶々日本人某の勧告に依り台湾を平定し同十六年台湾に病死した年三十九。

近松の戯曲『国姓爺合戦』は即ち鄭成功の事跡を綴つたもので、父を明人、母を日本人にもつていた所から、俗に和唐内と称へている。劇画として画かれる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)