足利義政

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あしかがよしまさ


画題

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解説

画題辞典

足利義政は足利八代の将軍なり。将軍義教の二男にして永享八年生る、小字三寅、後義成といい、更に義政と改む、宝徳元年征夷大将軍となり、享徳二年従一位に叙せられ源氏長者となる。己にして義政年四十を超えて子なく、弟義視の是より先、僧となれるを還俗せしめて嗣とせしが、後夫人富子の男義尚を挙ぐるに及びて、夫人は之を立てゝ義視を廃せんと図る。是に於て義視細川勝元に拠り、義尚山名持豊に託し、互に抗衝の結果、遂に応仁の大乱となり、京都大半兵燹に罹るに至る。義政職を義尚に譲りて後、文明十五年東求堂を東山に作り、縷刻するに金銀を以てす、時人之を銀閣という。義政之に遷りて日に茶宴を設け、古器丹青を玩弄す、数寄の盛なる此時を第一とし、世に之を東山(ひがしやま)時代という。延徳二年正月七日年五十七を以て薨ず、慈照院と称して太政大臣を贈らる。

足利義政画像(京都若宮八阪神社)、

同(土佐光信筆)(東京帝室博物館所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

足利義政、幼名三寅、後義成といひ義政と改む、法名慈照院喜山道慶と号す、義教の二男で足利八代の将軍、嘉吉三年将軍義勝薨ずるや嗣が無いので、管領畠山持国、諸将と相議し、迎へて嗣となす、文安三年従五位下に叙し、又勅によつて名を義成と呼んだ、翌年正五位下となり、宝徳元年には征夷大将軍に任ぜられ、参議を兼ね左中将となり、従四位に叙せられ、二年権大納言に転じ、従二位に累進した、享徳二年従一位となり、名を義政と改めた、義政齢不惑に達するも子がないので、弟義視の入道して義尋と号してゐるのを還俗せしめ、たとへ将来子を挙げても、これを仏門に帰せしめるといふ誓を立てゝ義視を嗣とした、幾何もなく夫人富子が男子を生み、義尚と命じた、夫人義尚を僧となすに忍びずこれを山名宗全に托して、義視を廃し、これを立てやうと計つた、これが延いて応仁の乱となり京都を紛乱の巷に帰せしめた、結局義尚を継嗣とし、文明五年、将軍の職を義尚に譲り、十五年東求堂を東山に作り、金銀を以てこれを装飾した、時人これを銀閣と呼び、北山の金閣に比す、延徳元年義尚薨ずるに及び、再び政を聴き、二年正月七日薨ず、年五十六、太政大臣を贈られた。  (国史大辞典)

足利義政像として伝へらるるもの左の通り。

筆者不明   京都若宮八幡宮蔵

土佐光信筆  帝室博物館蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)