謝安

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しゃあん


画題

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解説

画題辞典

謝安、字は安石、支那東晋の世の人なり、少にして重名あり、前後之を召すもの多かりしも、皆辞して就かず、士太夫皆之を惜しみ語って曰く、「安石出でずんば蒼生を如何せん」と、年四十始めて晋桓温の招きに応じて山荘を出で、仕へて征西司馬となる、後王坦之と共に朝に仕ふ、晩年会稽王道子と隙あり、太元十年官太保を以て卒す。安、文雅王道に過ぐ、徳量あり、秦の寇至る時、朝野皆震動せしも、安獨り夷然として碁を囲み墅を睹す、已にして捷書至る、安折りしも客と碁を囲みしも、捷書を一覧して座側に置き更に喜色なし、碁終り客その何事なるやを問ふに、小児輩賊を破るのみと答ふるのみ、やがて客去るや、安戸に入り喜んで屐歯の折るゝを知らざりしという。

京都新宮氏蔵日根対山の筆に「謝安山荘図」あり、日本絵画協会に橋本雅邦の出品あり。此他に文人画家の筆少しとせず。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那東晋の人、陽夏に生れ、奕の弟である、字は安石といふ、少くして令名あり、屡々召されたが出でず、時人謂て曰く『安石出でずんば蒼生を如何せん』と、年四十余にして始めて命に応じ司馬となり、深く桓温に重んぜられた、尋で呉興大守となり、徴されて侍中に拝し、吏部尚書に遷る、桓温逆心あり九錫の賞を求めたが、安石これを知つて故らに事を緩くし、温をして之を得ざらしめ遂に死せしむ、太元八年前秦の苻堅大挙して入寇するや、安石、姪玄及石を将としてこれを拒がしめ、大に淝水に破つた、晩年会稽王道子と隙あり、官太保に至る、歿年六十六、大尉を贈り文靖と諡された。安石、大量あり、曽て秦の寇到るの時、朝野皆驚愕したのに、一人悠然として客と碁を囲み、その捷報の来たのに唯一瞥しただけで喜色も現はす、客之を問ふと小児が賊を破つたのみと答へた、そして客が去つてから始めて喜色を見せたといふ。日根対山に『謝安山荘』の作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)