西鶴の描く町人女性

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

総合

江戸時代の町人女性

町人女性とは

十七世紀のはじめに徳川幕府がひらかれてから、江戸は急速な発展をとげ、武士の町であるとともに町人の町として栄え、大阪と並んで町人文化発展の中心地となった。この時代には封建社会のしくみが一だんと強められ、町人も農民もそのしくみの中に入れられた。しかし、貨幣経済の発達につれて町人が頭をもたげ、文化のにない手となったのであった。
町人は武士階級からの圧迫をうけることは少なく、かなり自由な生活をもつことができた。封建社会では、恋愛は社会の秩序を乱すものとして罪悪視されたが、町人の間では、恋愛は道徳の善悪をこえた、なまの人間の感情であるという考え方が強かった。浮世草子の代表的作家である井原西鶴が、「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」などの好色ものを書いて一般にうけたのも、当時の享楽的な都市生活を反映して、かなり自由な恋愛がおこなわれたあらわれであった。たとえば清十郎ゆえに狂乱するお夏の話には、何ものにもとらわれることなく、一途に信ずる恋をつらぬく女性の、いつわらない姿がえがき出されている。またお七吉三の艶話の主人公、八百屋お七も、恋には大胆な女性であった。

(『恋文から見た日本女性史』より引用)



江戸の封建制度

「①天子・皇帝・国王などの直轄領以外の土地を、諸侯に分割領有させ、諸侯はそれをさらに臣下に分与してそれぞれ自領内の政治の実権を握る国家組織。②国王・領主・家臣の間に、封土の給与と忠勤奉公を媒介として成立している、私的・人格的・階級的主従関係による統治形態。西欧では、六世紀頃に一般化。日本では、荘園制に胚胎し、鎌倉幕府の成立とともに発展。江戸幕府によって変質しながら、完成した。フューダリズム。」
また、同辞書の「封建的」の項目には「専制的・因襲的・閉鎖的であるさまや、上下関係を重んじて、個人の自主・権利をかろんずるさま」、「封建道徳」の項目には「封建制の時代に培われた道徳。男尊女卑のふるまいや、目上の者への絶対服従など。」と書かれている。

(「」は『日本国語大辞典』より引用)


以上より、江戸時代における封建制度では、身分・年齢の上下関係を盲目的に重視していたと考えることができる。また、松島栄一氏は封建制度下の町人の生活は、幕藩制社会の困窮、武士の貧困にしたがった社会の動揺、幕府の貨幣策の混乱によって左右され、それに対する反撥や反抗はせめて「遊里」において満たされ、「芝居」においてさばかれたと述べている。


さらにこの章で注目すべきは「封建道徳」に書かれていた「男尊女卑」である。『近世女性生活絵典』の遊女の項目に、次のような文章がある。
「客は当初、大名や豪商が多かったが、のちには町人が大多数を占めることになった。遊郭は、「制外」という、いわば当時における一種の別世界であり、浮世の制約とは無縁である。そこに、封建的身分制度の最下位に位置づけられ、不満をかこっていた町人は魅力をおぼえたのである。厳しい身分制の下で、町人が自由を謳歌できたのは、ただ一つ遊郭だけだったのだ。」

遊郭に通うのは、当然男性である。彼らが「封建的身分制度の最下位」に「不満をかこっていた」ならば、女性はどうであったのだろうか。男尊女卑の世の中で、彼ら以上の厳しい制約の中で生きていたことは想像に難くない。町人男性が遊郭でのみ自由であったと言うならば、女性の自由はどこにあったのだろうか。


『好色五人女』の町人女性

『好色五人女』とは

貞享三年(一六八六)刊の浮世草子。井原西鶴著。五巻五冊。このうち、巻一の「おなつ・清十郎」、巻四の「八百屋お七・吉三郎」、巻五の「おまん・源五兵衛」では、十代の未婚の娘たちが仕掛ける積極的な恋が描かれ、巻二の「樽屋おせん」、巻三の「経師屋おさん」の物語では、既婚女性の密通が描かれている。いずれの巻も、五つの実在事件を小説化したものではあるが、巷説なども取り入れた西鶴による創作作品と見なした方が良い。女性主人公それぞれの形像の仕方は個性的であるが、いずれの女性も、積極的・主体的な性愛の主体として登場する。作品に描かれた女性たちの恋情・性愛は、婚姻を破り、婚姻に結実しないという意味で、婚姻外のものであるが、作品全体に作者西鶴の共感が流れており、結果として、近世社会における恋愛が封建的な婚姻制度と矛盾するものであったことを示す形になっている。

(『日本女性史大辞典』より引用)


以下、巻二のおせんと巻四のお七の二人を取り上げ、その特徴を見ていく。


おせんについて

  • 「女も同じ片里の者にはすぐれて、耳の根白く、足もつけちはなれて、十四の大晦日に、親里の御年貢三分の一銀にさしつまりて、棟たかき町屋に腰元づかひして」「され共情の道をわきまへず、一生枕ひとつにて、あたら夜を明しぬ。」「是をそしれど、人たる人の小女はかくありたき物なり。」(p128.129)
  • 「紅の織紐付し紫の革たび一足」(p169)
  • 「すゑずゑやくそくの盃事して」(p208)
  • 「せんは別の事なく奉公をせしうちにも、樽屋がかりの情をわすれかね、心もそらに、うかうかとなりて、昼夜のわきまへもなく、おのづから身を捨、女に定つてのたしなみをもせず、其さまいやしげに成て、次第々々やつれける。」(p218)
  • 「麹屋の女房に濡れ衣を着せられたおせんは、性格の悪い女房を持ってしまった麹屋の長左衛門を気の毒に思い、長左衛門と浮気することで彼女を出し抜いてやろうと考える。」(p238 概要)
  • 「おせんかなはじと、かくごのまへ鉋にして、こゝろもとをさし通し、はかなくなりぬ。」(p245)

(『好色五人女全注釈』より)


おせんは片田舎の娘のわりに垢ぬけており、足もほっそりとしていることから、容貌の美しさは秀でたものであった。しかし、その華やかさに反して貧しい環境で育ち、色恋に関しては全く無縁で不慣れな様子である。 それがいつしか異性に興味を示したかと思うと、好意を寄せてきた久七には目もくれず、樽屋と夫婦の契りを交わすまでに至る。さらに、濡れ衣を着せられたことで浮気をするという発想に転換してしまうことは、当初の初心な娘からは想像もつかない姿である。



お七について

  • 「年も十六、花は上野の盛り、月は隅田川の影清く、かかる美人のあるべきものか。」(p10)
  • 「思へば夢なれや。何事もいらぬ世や。後生こそまことなれ」(p14)
  • 「さても浮き世の人、何とて鳴神を恐れけるぞ。捨ててから命、少しも我は恐ろしからず」(p24)
  • 「吉三郎寝姿に寄り添いて、何とも言葉なく、しどけなくもたれかかれば、吉三郎夢覚めて、なほ身をふるはし、小夜着の袂を引きかぶりしを、引きのけ、「髪に用捨もなきことや」と言へば、吉三郎せつなく、「わたくしは十六になります」と言へば、お七、「わたくしも十六になります」と言へば、吉三郎重ねて、「長老様が怖や」と言ふ。「おれも長老様は怖し」と言ふ。」(p30)
  • 「何ともこの恋始めもどかし。後は二人ながら涙をこぼし、不埒なりしに、また、雨のあがり神鳴、あらけなく響きしに、「これはほんに怖や」と吉三郎にしがみつきけるにぞ、おのづからわりなき情深く、「冷えわたりたる手足にや」と肌へ近寄せしに、お七恨みて申しはべるは、「そなた様にも憎からねばこそ、よしなき文たまはりながら、かく身を冷やせしは誰がさせけるぞ」と首筋に喰ひつきける。」(p32)
  • 「それとはいはずに、明暮れ女心のはかなや。」「あふべきたよりもなければ、ある日、風のはげしき夕暮れに、いつぞや寺へ逃げ行く世間のさわぎを思ひ出して、「又さもあらば、吉三郎殿にあひみることのたねともなりなん」と、よしなき出来ごころにして、悪事を思ひたつこそ因果なれ。」「すこしの煙立ちさわぎて、人々、不思議と心懸け見しに、お七が面影をあらはしける。これを尋ねしに、つつまずありし通りを語りけるに、世の哀れとぞなりにける。」「この女思ひこみしことなれば、身のやつるることなくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結はせて、うるはしき風情。」(p52)
  • 「(お七が歌を)吟じけるを、聞く人一しほにいたまはしく、その姿を見送りけるに、限りある命のうち、入相の鐘つく頃、品かはりたる道芝の畔にして、その身はうき煙となりぬ。」(p54)

(『江戸のラブストーリー』より)


お七が吉三郎の寝所に忍んでいく設定が『伊勢物語』69段を踏まえたものであるように、お七の物語は『伊勢物語』との類似が見られる。この点から、お七の様相を「王朝風」と表現する論文(信多純一「古典と西鶴―『好色五人女』巻四をめぐって―」『文学』46巻8号)がある。しかし、これはあくまでも見方の一つであり、必ずしもこの通りではない。
上記に記したように、本文中においてお七は「かかる美人のあるべきものか」と書かれており、美しさが強調されている。それでありながら、彼女の服装や装飾品については詳しく描かれていない。唯一「紫鹿子の帯」を身に着けていることが書かれているが、『江戸のラブストーリー』の解説によれば、これは当時模造品が出るほど若い女性に人気があったものである。特に目新しい・高級なもの、と言う訳ではないはずだ。つまり、お七の見た目は流行を取り入れたごく一般的なものであると言え、「王朝風」という言葉が表すような高級感は持っていないだろう。
このように、西鶴は流行を取り入ることで、お七を等身大の町人の娘として描いていると考える。ところが、吉三郎に会うためなら命を落とすことも恐ろしくないという発言は、町人の娘らしからぬ強気な態度が垣間見えたかと思うと、それが後の放火へと結びついている。


以上、ここではおせんとお七のみを取り上げたが、西鶴は彼女たちの町人である姿と恋愛によって大胆な行動を起こす姿との大きな差を演出しているのである。


悲劇的な結末について

巻五は例外として、おせんが前鉋で胸もとを刺し通して自害したり、お七が放火をして火刑に処されてしまったりと、女性たちは悲劇的な結末を遂げる。しかし、本文中においてその死に際から終わりにかけての場面は、何ともあっさりとした印象を受けた。ここでお七の火刑について、次のような文章がある。

「仮にも……許し給はぬなり」というのは建て前としての西鶴の発言で、本音は「この女思ひ込みし事なれば……」とつづく文章にこそ読みとられるべきである。 西鶴は明らかにお七の生き方を肯定しているのである。しかも、事実どおり作品のうえでお七を火刑にしているのは、この作品がモデル小説である以上に、西鶴が現実主義の作家であったということである。放火の罪を犯してまで、吉三郎に会いたいとするお七の心情に理解を示し、その生き方をそれなりに肯定しようとするのは、しょせんは西鶴個人の考えである。理想にすぎない。個人の理想をもってしてはどうにもならない大きな現実がある以上、作品のうえでも西鶴はお七を火刑にせざるをえない。現実主義の作家西鶴の姿勢である。

(神保五彌「西鶴の女性観」『江戸期女性の美と芸』小学館 1980年4月 )



悲劇的な結末で終わらせたことが、自らが現実主義の作家であるがゆえの建て前とするならば、その終わり方は西鶴が本当に意図したものとは外れるのではないだろうか。浮世絵や浄瑠璃などの世界では、お七という若い娘が恋ゆえに火刑に処される悲劇的場面が多く用いられ、有名になった。今でこそ、その結末の部分に焦点が当てられているように思われる。しかし本来西鶴が描きたかったのは、悲劇さということではなく、むしろそこに至るまでの女性たちの心移ろいでいく姿である。


まとめ

お七に関して言うと、前期の発表で述べたように浮世絵や浄瑠璃などの世界では、お七という若い娘が恋ゆえに火刑に処される悲劇的場面が多く用いられ、有名になった。しかし悲劇的な場面ではなく、西鶴が描きたかったのはそこに至るまでの、恋によって変化する女たちの愚直なまでに真っすぐな心情である。自由な恋愛もままならなかった時代において、彼女たちは自分に素直になり思うがまま行動した。『好色五人女』において重視されるべきは、その点だといえよう。
つまり、恋をすることによって心が移ろぎ、変容していく女性の姿を、自由な遊郭の中ではなく制限のある町人の中で表現したのである。


参考文献

樋口清之著『恋文から見た日本女性史』 講談社 1965年11月 

児玉幸太 井上靖著『江戸期女性の美と芸』 小学館 1980年4月

「井原西鶴 好色五人女の<お七>--悔いなく燃えた女ごころ (古典の中の女・100人<特集>)」 檜谷 昭彦著 国文学 解釈と教材の研究 27(13), p164-165 (1982-09) 学灯社

「井原西鶴 好色五人女の<おせん>--揺れ動く女心 (古典の中の女・100人<特集>) 」 堤 精二著 国文学 解釈と教材の研究 27(13), p160-161 (1982-09) 学灯社

前田金五郎『好色五人女全注釈』 勉誠社 1992年5月

浅野晃他編『元禄文学の開花Ⅰ ――西鶴と元禄の小説――』 勉誠社 1992年6月

石川英輔著『江戸のまかない 大江戸庶民事情』 講談社 2002年1月30日

『日本国語大辞典』小学館 2006年

西鶴研究会編『西鶴が語る江戸のラブストーリー ――恋愛奇談集――』 ぺりかん社 2006年9月

金子幸子[ほか]編『日本女性史大辞典』吉川弘文館 2007年12月

薮田貫 柳谷慶子編『<江戸>の人と身分4 身分の中の女性』 吉川弘文館 2010年8月

松島栄一 『近世の国学思想と町人文化』名著刊行会 2010年11月